the world was not enough

物語偏愛者の詭弁と戯言

アニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』 - キラめきの在り処

Image from Gyazo

スタァライト、されちゃいました。

キービジュアルを見て、何か惹かれるものがある作品だなと思っていた。聴けば監督は古川知宏で、ということは幾原邦彦の系譜なわけで、言われてみれば騎士風の衣装に剣を持った少女たち、意味がわかるようでわからないような「アタシ再生産」というデカデカとしたゴシック体は、イクニイズムを感じるところがある。そして実際にアニメを見てわかったのは、そういう表層的なビジュアル面と演出にとどまらず、抽象的な内面世界の描写が、具体的な現実へと影響を及ぼしていく作品構成などに至るまで、きちっと幾原作品を踏襲しながらも、よりわかりやすく、ケレン味は磨きをかけた、古川氏ならではの作風として完成していたこと。時に難解過ぎると感じるときすらある幾原作品に比べると、比較的読み解くことは難しくなく、シンプルに映像的な面白さも追求しているあたりが、古川作品としての持ち味なのかもしれない。

そういうイクニイズムへの好みは個人的なものなので置いておくとして、このアニメに何故魅せられるのかは、最終回でツダケンボイスのキリンに言い当てられてしまったので、もうズバリそれです、そのとおりです、わかります、としか言いようがない。

そう、あなたが彼女たちを見守り続けてきたように!  私は途切れさせたくない! 舞台を愛する観客にして、運命の舞台の主催者! 舞台少女たちの永遠の一瞬! 迸るキラめき! 私は、それが見たいのです。そう、あなたと一緒に。わかります。

理屈ならいろいろ付けられるのだが、それ以前にこのアニメは見ていて楽しい、面白い、輝いていて眩しい、少女たちの葛藤と、ふんだんな動画枚数で動き回るアクションをずっと見ていたい。そう思わせる作品だったし、もうそれだけで十分なのだろうと思う。舞台上でキラめくことを目指す少女たちが、剣を手に取り決闘をする。1話で見たときは「なんだこれは」という状態だったし、いまだになぜ決闘なのか納得しきったわけでもないが、それが美しかったのだから、キラめいていたのだから仕方ない。「なんだかわからない熱さが胸を焦が」したアニメだって過去にはあった。細かい理屈はわからなくとも、熱く全力で輝くキャラクターたちは、ただそれだけで胸を打ってくる。舞台を題材としていることもあって、度重なる「光」の描写が本当に綺麗で、大場ななならずとも「眩しい……」とつぶやいてしまうような、そんなアニメ。私は、それが見たかったのです。

Image from Gyazo

キラめきとはなんだったのか。

神楽ひかりはそれを追い求め、一度失い、失ったので今度はそれを奪おうとした。大場ななは過去に得たキラめきが眩しくて、それを何度も掴み直そうとした。舞台少女たちはトップスタァを目指し、たどり着けなかった者たちは、自らのキラめきを奪われる。キラめきは簡単に掴めるものではなく、容易く失われたり、追いかけても掴めないものとして描写される。

しかし最終話、愛城華恋は一度失ったキラめきを、誰かから奪うのではなく、自ら「再生産」する。

奪われたって終わりじゃない! 失くしたってキラめきは消えない! 舞台に立つたびに何度だって燃え上がって生まれ変わる! アタシ、再生産!

Image from Gyazo

舞台から下りた華恋が、もう一度「再生産」するのはこれが初めてじゃない。第1話、最初の「再生産」バンクのとき、華恋はすでに一度キラめきを失っていたのではないか。ばななの話によれば、ひかりの乱入によって、8人のオーディション参加者から外されたはずだったのが華恋だった。それはひかりの転入直前、華恋が見た夢の中で、ひかりによって東京タワーから突き落とされる描写で表現されていた。ひかりによってオーディションから外され、キリンからは舞台に立つ資格がないと突き放された華恋は、しかしひかりへの思いによって自らを「再生産」する。華恋のキラめきの源泉は、第1話でも最終話でも同じように描かれているとおり、ひかりの存在そのものだ。

Image from Gyazo

トップスタァになれなかった者たちが、トップスタァにキラめきを奪われるというのは、比喩として理解できる。それは神楽ひかりも経験した「挫折」そのものであるし、ポジションゼロに立つことを許されたトップスタァは、脇役たちの引き立てがあってこそ、自らが最高の演者として、スポットライトの下で光り輝く。

華恋が目指したトップスタァは、奪って輝く存在ではなかったのではないか。求めても得られない、遠くにある何かを、何度も何度も置い続ける、劇中劇『スタァライト』でも言及された「輪廻」ではなかったのではないか。華恋が欲したのは、舞台に立つたびに新しく燃え上がる、何度だって消えることのない、一瞬の輝き。それは誰かからキラめきを奪って成り立つものではないし、過去に得たものを、もう一度得られるというものでもない。自ら舞台に立ち、自分で「再生産」するものがキラめきだったのではないか。

愛城華恋は神楽ひかりの存在さえそこにあれば、何度だってキラめきを取り戻して輝ける。そして舞台に立った彼女は、「みんなをスタァライト」する。ばななの推測では、彼女が繰り返し「再演」してきた運命の舞台を変えたのは華恋だったが、そのきっかけは当然ひかりだったとして、みんなを少しずつ変化させていったことこそが、彼女の「スタァライト」だったのだろう。その結果絶望の輪廻は止まり、舞台少女たちは、自分たちのキラめきを見つけることができる「新章」へと歩みを進めることができた。

Image from Gyazo

カップリング描写が強烈なアニメを雑に「結婚式」と呼んだりもするが、スタァライト最終回は見ててつい「結婚式じゃん」と口走りたくもなった。「全部ちょうだい」なんて言われた日には、そりゃぁもう結婚じゃなくてなんなんだよという話であって。愛城華恋の眼には、良くも悪くも神楽ひかりのことしか映っていない。自らのキラめきにフォーカスしたこの作品は、「舞台」をモチーフにしながらも一向に観客への目線が出てこないが、ひかりとの関係性を究極にまで高めた華恋が魅せたアンコールこそ、キリンが大興奮するほどに求めていたステージだったというのだから面白い。「観客の不在」は、彼女たちの意識が外に向かっていないという欠点ではなくて、なるほど、むしろ閉じたステージの上で繰り広げられる、誰も介入できない少女たちのキラめきこそ、我々が見たかったものなのだと言われると、それも確かにそうだな、と思えてくる。

正直に言えば、メディアミックス展開が前提となった群像少女ものというのは最近よくあるコンテンツで、このアニメも個々のキャラクターをほどほどに掘り下げ、ほどほどのクライマックスで終えるものかと侮ってもいた。しかし脚本は幾重にも伏線が張り巡らされたとても丁寧かつ、何度も見返したくなる出来だし、東京タワーに代表されるメタファーやモチーフの扱い方もセンスがあって、ただ見ているだけでも楽しいし、いくらでも深読みして楽しむこともまたできる、なんとも奥行きのある作品だった。

わずか1クールで終わるのがとても惜しいが、この続きは舞台で、というところだろうか。観客がいる限り、舞台は続くのだから。