インターネットの登場によってあらゆる情報がフラット化するって言われ始めて久しいんだけど、じゃあなんでいまだに情強・情弱なんて言葉があるんだろう、と。
フラット化。確かにいろんな情報へのアクセスが容易になった面はあるし、おそらく人間一人当たりが接する情報量も一時代前と比べれば数倍、数十倍というレベルで増えてるんだろう。それはわかるんだが、でもだからといって誰もが全部の情報にアクセスできるわけじゃないし、ネットで身のある情報を集めるにはコツがいる。2chまとめサイトしか見ないような人と自分なりのRSS収集をしているような人では集める情報にも差が出てくるだろうし、それって通勤電車でスポーツ紙を読んでいる人と、なんかムツカシイ雑誌とか読んでる人の差と同じでしかない。そう考えると、ネットで情報がフラット化しても、あまり情報の「平等化」には至ってないんじゃないかな、と思う。
逆にネットが情報格差(という言葉は適切じゃない気もするが)を強固にしている面すらあるように思える。「ネットでは見たいものしか見なくなる」とか、新聞業界のおっさんが断末魔のようによく言っているけど、どちらかというと「ネットでは見られる情報が限られてくる」んじゃないかなー。例えば俺はTwitterは好きだけどFBは苦手なので、FBで流行ってる情報なんぞは手に入れる術がない。そのTwitterにしたって、フォローしてるのはボカロクラスタとかはてなーとか同年代の人たちとかだから、経済ネタとかテレビの話題なんてのはあまり入ってこない。ネットでハンドルを名乗って活動する場合、どこかしらのクラスタに属するのが常であって。見たいものしか見ない、なんていう主体的な話というよりは、見たいもの以外に見る術があまりないんじゃなかろうか。情報のジャンルが偏るからって、小町の人たちに人力検索はてなに行けとは言えないでしょう、どう考えても。
インターネットが普及した結果、行き着く先がディストピアになってしまってはならないというのが個人的な心情なんだけど、そういう立場から見て、こういう状況をあまり好ましいとは思っていない。情報がフラット化するのであれば、なんとかして情報に接する機会もフラットになってほしいと願っている。情報を持っている人たちが、そのことを鼻にかける「情強」なんて言葉が生まれることなく、あらゆる場所に情報が行き渡るようなインターネットをなんとかして実現できないものなのか。まぁネットに限った話でもないんだが、本来インターネットってのは知識の寡占を崩す存在だったんじゃないかと。
その一端を担うのが、こういう発信の場なんじゃないかと思ってる。あらゆる人が自分のもつ情報をアウトプットして、それがネットワークで世界中つながっていくっていう、ごく単純で初歩的なインターネットの思想こそ、一番大事なことなのかもしれない。