the world was not enough

物語偏愛者の詭弁と戯言

『天気の子』 - 「世界の在り方を変えてしまう」ことと、世界の中で生きていくこと

ネタバレありの感想です。


映画『天気の子』後報

鑑賞後に明確なカタルシスが得られた『君の名は。』と違って、『天気の子』を観終えた瞬間はモヤッとした感情で包まれた。カタルシスが一切ないわけではなく、積乱雲の中での二人のやり取りのシーンではほろっと来たりもしていたのだが、それでも「本当にこれでいいのか」「こんなに明確に社会や世界を切り捨てて、それで終わってよかったのか」という思いが捨て切れず、映画を全肯定することができないままに幕は閉じた。

そういう人はおそらく自分だけではなかっただろうと思う。またそういう感情を抱く理由も、それほど難しい話ではない。『君の名は。』はとてもシンプルに、「君を救う」という行為が「世界を救う」という大きな枠の中に内包されていたので、だからそこに向けてただただ走っていくような展開を迷いなく肯定することができ、観ていて感情を入れ込みやすかった。一方の『天気の子』は「世界を救う」と君は救えず、「君を救う」と世界が救えないという形で二者が対立した構図を取り、一直線のストーリーではなかった。「君」の運命が「世界」の運命に直結するという構造を見て、確かに自分も本作に「セカイ系」の要素を見出した。そして本来であれば、そこで主人公に葛藤が生じるはずのところ、帆高の行動には「世界か君か」という葛藤はほとんど見られない。彼は最後まで、徹頭徹尾「社会」や「世界」に対して抗い続け、歌舞伎町のキャッチから警察から、さまざまな大人からひたすらに逃げ続け、最後には迷いなく晴れた空を捨て去り、陽菜を救うことを選ぶ。それは言ってしまえば「反社会的」な、幼児的万能感とも取れそうな選択にも見える。その姿に感銘を受ける者もいるが、成長をしない主人公として歯がゆさを覚える者もいる。これが本作に抱く「モヤッとした感情」の正体だった。まぁこのあたりの基本的な構造は新海監督のインタビューでも触れられているし、改めて紐解くまでもないとは思う。

ただ、改めて考えてみるに、本作で最も重要な要素は帆高自身の一連の行動よりも、3年後を描いたエピローグにあると考えている。

本作は、単に「反社会的であろうとも、自分の思いをひたすらに貫き通すこと」をピュアに描いた作品だった、というわけでもない。もっとも、帆高自身は3年後の時点に至ってなお、自身をそういう人物として捉えているのかもしれない。彼は自分が「世界の在り方を決定的に変えてしまった」と考え、それに対して罪悪感のようなものも懐きつつ、それでも陽菜と生きることを選んだ自分を肯定して、ある種の決意のようなものを胸にして物語の幕を閉じる。あれは物語冒頭で須賀から「主体性のねぇやつ」と称されていた帆高が、青年となり、主体性を見出した瞬間だったのかもしれない。

Image from Gyazo

そんな彼に対して、須賀がかけた言葉は「自惚れるなよ」だった。つまりは、帆高は「世界を変えた」と考え続けているが、須賀から見れば、世界は変わってなんかいない。変えられてなんかいない。帆高ひとりのせいで、世界などという大きなものへ影響があったなどという認識は自惚れなのだと、彼はそう告げている。娘との再会の写真を喜んで眺めているシーンから察するに、おそらくは帆高の一件で警察に逮捕されたこともあり、起訴や有罪判決にこそ至らなかったのだとしても、養育権を得るには至らなかったのだと思われる。それでも彼は、帆高に「自惚れるな」と言う。

同じくエピローグで帆高と会う人物に、瀧の祖母がいるが、彼女もまた、帆高に対して「どうしてあなたが謝るの?」という印象的な台詞を吐く。これはもちろん、彼女は事の真相を一切知らないので、「別に我が家が水没したのはあなたのせいじゃないのに、なぜ謝るの?」という文字通りの意味でしかない。だがメタ的に考えると、この台詞は陽菜に人柱としての役割を(無意識のうちにではあるが)望んでしまった人物から、陽菜をその役割から救うことを望んだ人物に対して掛けられた言葉になっている。瀧の祖母もまた、陽菜の消失と、東京の水没という惨事に無関係なわけではなかった。その人物から発せられた台詞として解すると、「どうしてあなたが謝るの?」という帆高への言葉は、別の意味を帯びているように感じられてくる。「あなたの大切な人を犠牲にしてしまおうとした人は、私も含め大勢いたはず。それに対して抗ったあなたが、私にどうして謝るの?」と。

さらに、彼女の台詞には「このあたりは元々海だった」という内容もある。これは中盤で気象神社の神主が述べた、天気の巫女の天井画が800年前に描かれたものであり、また異常気象などというものも、数百年、数千年という歴史のスケールで考えれば、甚だ異常というわけでもない、という話にも繋がってくる。つまるところ、帆高の言う「世界の在り方が大きく変わってしまった」出来事も、マクロな世界から見れば、ほんの些細な変化でしかなかったのかもしれないということを示唆している。

無論、東京という大都市の水没が「たいしたことではない」とは言い難い。3年間降り続く豪雨によって徐々に水没が進んだとはいえ、その過程で命を落とした人だっていたはずだ。それでも瀧の祖母のように、在り方が変わってしまった世界に順応して人は生き続けている。須賀に関して言えば、以前よりまともな生き方にさえなっている(須賀の3年前の生き方は、妻の死、娘との別離から逃避するためのものだったと思われる。帆高を解雇した直後、バーカウンターで罪悪感から酔い潰れていた様を見るに、彼は精神的なストレスから怠惰に走りやすい性格だったはずだ。それが3年で逃避を止めたのは、同じく「大切な人の喪失」へ積極的に立ち向かう帆高の姿に感化されてのことだろう)。世界、というより、人が生きる環境は変わるかもしれない。しかし、それとは無関係に人々は自分の生き方を見出し、変わる世界に順応して生きていく。だから、人が生きる世界は変わらず、世界はそれでも回り続ける。帆高によって、その在り方が「決定的に変えられてしまった」なんてことはない。自ずから生き方を変えたという自負を持つ須賀から出た言葉が、先の「自惚れるな」だったのではないかと思う。

当然ながら、これはセカイ系全体に対するアンサーとしては機能しない。『ヱヴァQ』で人類滅亡のトリガーとなったことを知ったシンジに、「自惚れるな」と言ったところで意味は成さないだろう。とはいえ、社会や世界からの理不尽な期待を寄せられ、その身を危険に晒さなくてはならなかったという点においては、陽菜とシンジの状況は共通する。違うのは、シンジは結局逃げることができなかったが、陽菜は逃げたということだ。社会からその身を犠牲にせよと迫られたとき、子どもはそこから逃げてはいけないのだろうか。帆高は社会や大人と戦うことができる「銃」をその手に入れてはいたが、一度も人を傷つけなかったそれは、砂糖菓子の弾丸に等しいものでしかなかった。彼らに出来る選択肢は、逃げることだけだった。そして社会に反駁さえしながらも、自分たちの未来を選んだ子どもたちを、須賀や祖母は形上受け入れてくれている。『天気の子』は、社会から見放された、社会から無自覚な期待や重責を背負わされたときに、そこから逃げることを選択する物語だ。あるいは裏返して見れば、世界を救うという大義名分の下であっても、個人の尊厳を奪っていい理由にはならないという物語だったとも言える。前作『君の名は。』においても、そもそも彗星の到来を食い止めるだとか、自然の摂理を捻じ曲げるまでのファンタジックな展開に至ることはなかった。彼の作品には、大きな自然や世界の流れ自体は変えることができず、その中で人間が「なんとかやっていくしかない」という側面が見受けられるようにも思う。

そうやって考えていくと、最初はモヤッとしていた本作に対する思いも、極めてクリアなものに変わっていった。彼らが世界を救う選択も出来たのは確かだが、そのために誰かの生命を奪うべきではないというのは至極当たり前のことで、そういう選択をした帆高を自己中心的であったと責めることは、それはそれでひどく不道徳な行いに思えてくる。そういう葛藤を捨てて、自分にとって正しいと思えることをまっすぐ選べる彼が羨ましかった。だから須賀と同じく、積乱雲の中のあのシーンで、自分も涙を流すに至ったのだと思う。帆高にとっての人生の本番は、この物語の後から始まるのだろう。世界を変えてしまったという後悔と、「君」と生きることを選んだのだという確かな決意を胸にしつつ、そんな自分たちを受け入れてくれるであろう世界と、どう折り合いをつけながら生きていくことができるのか。あるいは、これからも社会や世界から目を背け続けるのか。『雲のむこう、約束の場所』とは異なり、彼が選んだ「君」はきちんと隣で生きている。今回、新海作品では定番の「最後に2人は一緒にいられるのか」という波乱がなかったのは、「選んだのだから、きちんと2人で未来を生きろ」というメッセージに思えた。RADWIMPS の歌う曲の1つに「大丈夫」というものがあるのも、とてもいい。

Image from Gyazo

シーンとしては最後に代々木の廃ビルへ帆高が入ってから、須賀や警察に引き止められ、それらを振り切って陽菜を救い出すに至るまでの一連のシーンがやっぱり好き。畳み掛けるような感情のうねりが新海作品らしいなぁという感じだし、『言の葉の庭』では雪乃が階段を下って行ったが、一方で今回の帆高は階段を登って頂上を目指し、彼が踏み出した踊り場は崩れて退路も立たれるという、対比のようにもなっているのがたまらなかった。あの直前に、帆高が警察や須賀に対して「みんな何も知らないで、知らないふりして!」と憤った台詞を含め、『言の葉の庭』の意図的なセルフオマージュになっている部分もあったのかもしれない。全体的には『君の名は。』よりテンポも遅めで弛緩した印象もあったが、あの廃ビルのシーケンスからエピローグまでに関しては、今後も事あるごとに見直したくなりそうだなと思う。