the world was not enough

物語偏愛者の詭弁と戯言

グレーを受け入れること

2019年3月にクライストチャーチで51人が死亡したテロを覚えているだろうか。そのとき、ニュージーランド首相の Jacinda Ardern が語った言葉を引く1

He is a terrorist. He is a criminal. He is an extremist. But he will, when I speak, be nameless.

“And to others, I implore you: speak the names of those who were lost rather than the name of the man who took them.

あるいは地下鉄サリン事件を覚えているだろうか。覚えていない、もしくは経験していない人はいても、まったく知らないという人はいないと思う。ではその主犯や実行犯の名前は記憶にあるだろうか。一定の年齢以上の人であれば、1人か2人は浮かぶのかもしれない。そしてもうひとつ、地下鉄サリン事件の被害者の名前は1人でも浮かぶだろうか。

先の Ardern が言及したのはまさにこの点である。悪逆を尽くした罰せられるべきものの名が遺り、そこで失われた無辜の命は無名に終わる。そこに非対称性はないだろうかという話である。いや、そもそも「無辜の命」という言葉自体、その非対称性の証左と言える。被害者を何食わぬ顔で「無辜」と呼べるのは、彼らが匿名だからである。もしかしたらその中には悪人だっていたかもしれないが、我々はそれを知らない。故に「無辜」という形容詞は「顔のある悪党たち」と対比される「(顔のない)健全な市民」という、古典的なステレオタイプにほかならない。

犯罪被害者の実名報道という問題においては、大きく3つの論点があると考えている。1つ目はマスメディアが元来期待されている機能である、公権力の監視である。より平たく言えば、警察の捜査過程の透明化ということになる。昨今取り調べの可視化に関する議論も活発だが、警察が公正で公平な捜査を行っているか。つまりはその過程で得た情報を詳らかにすることができるのか。彼らに恣意的な情報の隠匿を許すべきではないという観点に立てば、それがどのような情報であれ、オープンにすることを求めることには意義がある。

2つ目は事件の詳細を明らかにするため、記事に説得力を持たせるためという観点である。先の「顔のある悪党たち」と対比される「(顔のない)健全な市民」という表現は、村上春樹地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた1冊である、『アンダーグラウンド』から引用した。

被害者たちにリアルな顔がない方が、文脈の展開は楽になるわけだ。そして「(顔のない)健全な市民」対「顔のある悪党たち」という古典的な対比によって、絵はずいぶん作りやすくなる。私はできることなら、その固定化された図式を外したいと思った。その朝、地下鉄に乗っていた一人ひとりの乗客にはちゃんと顔があり、生活があり、人生があり、家族があり、(中略)矛盾やジレンマがあり、それらを総合したかたちでの物語があったはずなのだから。ないわけがないのだ。それはつまりあなたであり、また私でもあるのだから。

アンダーグラウンド (講談社文庫)

アンダーグラウンド (講談社文庫)

彼もこの中で、可能であれば実名でインタビューを載せたかったという旨を述べている。「そこにいる生身の人間を『顔のない多くの被害者の一人(ワン・オブ・ゼム)』で終わらせたくなかった」のだという。もっとも、本書においては実名公表を拒否した人物に関しては仮名での表記が成されており、また誰が実名で、誰が仮名であるかは言及されないという配慮が成されており、村上は被害者に無理強いをしてはいない。

この観点については賛否が分かれると思う。というのも、極めて観念的な話であり、何か客観的な根拠をもった判断が難しいからだ。ただ、物語というものに対して人一倍感度が高いであろう者たちが、「匿名であろうと実名であろうと、その悲劇を受容するにあたり、何かが変わるわけではない」と主張するのは、私には少々白々しく思える。村上は、自身が先述の観点にこだわるのは、作家である故かもしれないという自覚を述懐している。

そして3つ目が、被害者感情である。具体的にはメディアスクラムや人権の問題である。これに関しては詳しく書く必要もないだろうと思う。昨今 Twitter で漏れ聞こえてくる観点は、基本的にはこれだからだ。

ただ、この観点も単に被害者への同情で終わる話でもないのかもしれない、と思っている。2016年に神奈川県で起きた障害者施設での事件においては匿名報道が貫かれたが、障害を理由に匿名とすることは、逆に彼らの権利を侵害しているのではないかという声もあったようである 2

この世界には多くの問題がなおも横たわっているが、そのほとんどが是か非かという二値のものではない。今書いたように多くの観点があり、ある問題に関してAの観点からは賛成できるが、Bの観点からは反対である、という立場も取ることができる。逆に見れば、あなたが賛同できないある主張に声高に寄り添う者がいるとして、その者にはあなたが気付かない何かの観点が見えているのかもしれない。あるいはあなたが反対している観点に関して、別の人の立場に立つと賛成できるのかもしれない。人の立場は多様であり、価値観もまた多様である。流行りのワンイシュー政党の何が問題なのかを考えればわかる話でもある。

だから、グレーを受け入れることが必要だと私は思う。私は今回の事件に関して、無理に実名報道を強いることには賛同しない。しかしマスメディアが警察に対して実名公表の申し入れを行ったり、共同通信が表立って情報提供を呼びかける 3 、その姿勢を理解はする。これだけ大きな事件の被害者たちを、ワンオブゼムで終わらせたくないという思いが、マスメディアに存在しないはずがないからだ。そしてすでに実名を公表されている被害者10名の遺族に対しては、精一杯の敬意を払いたい。様々な葛藤があったと推察するが、それでも公表に踏み切ったことには、何かしらの思いがあったのだと思う。

私は今回、一部実名公表という形が取れていることを強く重視している。これは現時点において、遺族に実名公表の裁量が委ねられている、そういうバランスで警察とマスメディアとの力関係が推移しているということを示している。だから今後もそのバランスが維持されることを願っている。

先述した通り、私は基本的に「実名報道を強いること」には賛同しない。しかし現在行われている、実名報道に反対する署名活動にも賛同しない。数は力である。無論、その自覚があって署名を始めているのだろうが、それは果たして誰のためか。被害者や遺族のためというより、自身の主張のためにはなっていないか。仮に、である。被害者遺族の中に、現時点での実名公表は考えられないが、落ち着いた折に公表をしたい、ワンオブゼムで終わらせたくないと翻意した方がいたとして、実名報道反対という声の「数」が可視化されることは、それはそれで不自由な圧力を意味しないだろうか。個々人がSNSなどでバラバラと実名報道反対を叫ぶのはいい。しかし署名活動というのは、数を力に変える手段である。その矛先が誰に向く可能性があるのか、もう少し考えたほうが良くはないか。被害者遺族が始めた活動なら構わないのだが、今回のものはそうではないだろう。第三者が遺族の意向を左右するべきではない。それはマスコミでもファンでも同じである。もちろん、会社側が実名報道を控えるようにという声明を出しているため、それが署名活動のエクスキューズにもなっているのだろうとは想像する。だが一方で、その後10名「だけ」が実名公表された実態もある。そういった複雑な状況下で、我々に「数の暴力」を使ってまで実名公表に反対する権利があるのか、私にはわからない。尊重するべきが被害者感情であるのならば、彼らが呼びかけたわけでもない署名活動というのは、マスメディア側とは逆ベクトルに被害者へ何かを押し付ける結果も生み得るのではないかと危惧している。

この事件に関しては様々な思いが去来していて、そして被害者が被害者だけに、様々な声が聞こえてもきて、それがなんとも苦痛で、だから1か月間関連ワードを Twitter でミュートして、何も聞かずに語らずに終えるつもりでいた。語る言葉も持ってはいなかった。しかし1か月を越えたところで、このような事態になり、そしてそれが目に入って感情を大きく乱されたのは不覚だったなと思う。このような文章も書かずに終わればよかったのだが、どうにもこらえきれなくなってしまった。別に私が正しいと言いたいわけでもない。ただ吐き出しておきたかったという、これも身勝手な感情の発露にほかならない。どうも、疲れてしまった。

我々にできるのは祈りを捧げることと、そして静かに見守ることだと思っている。先の口座開設時のように、彼らからの呼びかけがあれば全力で応えればいい。しかしそれ以外はまだ、ただただ私は待っていたい。