13年選手です。
「ほかいま」という単語はもうほぼ死語だと思うが、初期のTwitterの空気感をよく表している気がして。今でも使われているかもしれないが。一応意味を説明しておくと「ほかほか」と「ただいま」のかばん語であり、風呂から上がったことをツイートするときに使われていた。風呂に入ってからもう一度TLに現れることは「ただいま」なのよね、というのと、ほんの30分か1時間そこらの時間、TLから離れて戻ってきたことをわざわざ報告するんだな、というのと。
自分もそうだったが、家にいるときはPCをほぼ付けっぱなしにして常にネットと繋がっているような人々がいた。スマホが全盛期を迎える前の時代。スマホで簡単にネットに繋がれるようになって、そういう人の割合は減ったような気はする。わからんが。で、そういう人たちにとってTwitterは相性が良すぎて、PCを開いているときは常にサードパーティのクライアントソフト(夜フクロウとかTweenとか)を起動していて、つまり家にいるときは常にTLを開いてTwitterに繋がっている、という状態。これはなんというか、インターネットにおける居場所のようなものだった気がする。Twitter以前においてもBBS的なもの、2ちゃんねるとかmixi日記のコメント欄とかで擬似的にリアルタイムに会話をしている、という状態や、クローズドな形でのチャットはあったけれども、何の操作もしなくても他人の書き込みが自動的に流れてきて、自分のツイートもリアルタイムに見られてfavがついて通知が来たり、ということをオープンな場でやる感覚はTwitterが初めてもたらしたように思う。ハイクがその前にあったかもしれない? でもあれ使ったことないのでよくわかってなくて。人数的な規模でいけば、あれほど多くの人とオープンに繋がる場はやっぱり初めてだった気はしていて。ネットというのは顔が見えないし、ブログなどの静的コンテンツは誰かが書き残したものではあるが、そこに誰かが「いる」という感覚にはならない。でもTwitterは短文を人によっては数分、数十分おきに投稿するような場で、そこに行けばその人が「いる」という感覚が強い。今でもコンタクトを取りたい場合はメールアドレスではなくTwitterからどうぞ、DMも開放してます、という話をすることもあるし、インターネットにおける自分の「居場所」にあたるものはTwitterである、という気持ちはまだ残っている。
インターネット上でリアルタイムにテキストを流す場、という類において、Twitterが絶大なユーザー数を誇っている以上、そこは様々な人にとっての「居場所」になりうる、公共圏に近いものになってくる。災害のとき、GitHubの反応が悪いとき、『水星の魔女』最終回が放映されたとき、某国で武装蜂起の報道があったときなどに検索する場はTwitterだ。世界中の人がリアルタイムに書き込んだテキストから任意のクエリをかけて最新情報を掴める、そこからピックアップしたツイートにはパーマリンクがあり、実際に10年前のツイートでも削除さえされていなければ読むことができる、なんて場は他にない。だから 東日本大震災当時のTLを検索で再現する なんてこともできる。今をもってなお、Twitterは唯一無二だし、だからイーロン・マスクの就任以前においても「改悪」と呼ばれるような機能更新は何度かあったが、それでも致命的にユーザーが離れるには至っていない。
この数年、自分は以前に比べればあんまりツイートしなくなっていて、というよりTwitterにログインしなくなっていて、でもTwitterをやめるには至らなかったし、今後もTwitter自体が終了しない限り、アカウントを消すことはないと思う。「居場所」には過去が蓄積されすぎた。自分自身のツイートもそうだし、フォロー/フォロワーの関係もそうだし。10年以上複垢も作らずにやっていると、本当に色んな人がTLに混ざっている。最初のころははてなやVOCALOIDを通じてが多く、就活同期が検索などを通じてフォローし合ったクラスタというものもあったし、趣味で合唱をやっていたりという繋がりもあるし、本職のエンジニアとしての関係性もある。直接やり取りをしなくなった人も少なからずいるが、TLに来れば近況が見えたりするのは良いものだし、かつてVOCALOIDにハマっていた人や曲を書いていた人が、今はマンガ描いたり小説書いてたりしている例もあって、人生だな、という感じがある。リアルな友人でも、LINEしか交換していない近所の友人より、Twitterでフォローしている遠くの友人の方が距離を近く感じるときはままある。
だからTwitterを離れることはきっとないのだろうが、一方で移住先は考えてもいいのだろう、と考えるのが2023年に入ってから、少しずつそういう気持ちは膨らみ始めた。特に大きかったのは最近の変更で、ログインしていないユーザーからツイートが見えなくなった一件。現在は緩和されたのか、ツイートは見えるがユーザーページは見えない、ぐらいの形になってはいるが、いずれにせよ、パーマリンクさえあれば誰からでもツイートを追ってもらえる、という状態が一時的にではあれ、なくなってしまったと言う事実は結構痛い。それは自分のツイートを見てもらう上でもそうだし、ツイートを通じて情報収集している立場としてもそう。そもそもAPIが高額オプションになった時点で、ツイートをいい具合にキュレーションしてくれる系のサービスはあらかた潰されてしまった。情報収集についてはもうどうしようもないが、自分の発信のほうは、改善するという選択肢もあるんじゃないかと思う。ブログを書きました、とか、この本を読みました、とか、自分の最新情報を流す、パブリックで半永久的なストリームとしてTwitterを扱ってきた部分がある。その可能性が潰えるのはつらい。そんなものを一営利企業に託していたのが間違いだったと言われれば、そうなのかもしれない。「すべてのリアルタイムテキストがTwitterに集まっている」という感覚自体も、いわば集団幻想みたいなものではあったわけで、そこから取りこぼされているテキストや、インターネットの外というものも存在するし、そんなことも考えていくと、あの一極集中自体が歪だったとも言えるわけで、バベルの塔をあえて崩壊させることもまた有意義なように思えてくる。13年前のあの頃のTwitterは、あの人数だったから成り立っていたところはあった。多くの人が参加しているが、それでも社会の成員すべてではなく、むしろ偏りのある集団としてTwitterという巨大すぎるコミュニティが膨れてきた今、再び小さなコミュニティに回帰する、のかもしれない。流れとして。
今考えているのは、Twitterアカウントは維持しつつ、自分の情報を流すメインのストリームは、誰かが建てたインスタンスやサービスを使うのではなく、自分自身で持とうかな、ということ。それをどういう形で持つのかはまだ悩んでいるし、そもそも要らないと割り切ってしまってもいいのかも、というのも思っている。そのあたりは技術的な話になるので、書くとしても https://chroju.dev/blog のほうになると思う。その点だと個人が運営しているmisskey.ioやfedibirdは選択肢に入らないというか、過度な期待をかけるのも申し訳なくなってくる。Blueskyは現状クローズドで外からは見えないので除外。Threadsが外からも見えて、Mastodonなどと連携できるActivityPubへの対応も表明している点で最も惹かれる。これに関しては迷わずアカウントを取りあえず確保してしまった。
間違いなく、Twitterがあった故に自分の人生は変わった。Twitterがなければやらなかったことはいくつもあるし、Twitterがあるから会えた人もたくさんいて、Twitterを通じて知ったこともたくさんある。逆にデメリットとか、Twitterがなければ得られていたものだって多分たくさんあったのはそれはそうではある。あるが。この時代に生まれておいて、これほど長らく続いたビッグウェーブに乗っといたことは無駄とも言い切れない気はしている。この10年ぐらい、自分がネットを使う上で核の1つだったのは確かで、そこから離れていくことにはどうしても慣性が働くが、ここらが一つの潮時なのだろうな、と思う今日この頃。
自分と似たようなことを考えている人は日本に万の単位でいそうではある。