わたしは、エッセイを書くというのは赤裸々なことではなくて、もっと編集の眼差しが必要なものだと思う。すべてに見えるように書いたとしても、すべてを書く必要はない。あなた用の真実とわたしだけの真実、真実はたくさんあっていい。 (p.184)
くどうれいん『日記の練習』を読んでいたら、後半でこのようなくだりがあった。
日記はその体裁上、「生」の文章として受けとめたくなる。その人の素の日常として捉えたくなる。でも、実際にそうとは限らないし、そうでなくったってかまわない。それは読み手からはわからない。完全な創作を日記の体で出しているかもしれない。完全とは言わずとも、何らかの脚色がされているかもしれない。それは演出上の都合かもしれないし、何らかの理由で「書けなかった」ことがあるのかもしれない。別にそれでいい。
本から切り抜いた文章が誤解を招いてもよろしくないので、本文中にあったエクスキューズをここでも書いておくが、これは彼女が嘘を書いているという意味ではない。日記を否定したいという話でもないし、日記は編集するべきものだという話でもない。やむを得ず、日記は赤裸々なものではなくなることがある。日記という、その日に起きたことをその日に、しかも不特定多数に向けて書く、リアルタイム性の高いリズムのなかでは、誰かに読んでもらう文章として書ける状態になるほど「起きたこと」を整理しきれないときがあるという話であり、書かないでいることによる価値もあるのだという話。
だから、と言っていいのか。この本は日記を毎日書いているわけではなくて、長々と、1日を何回かに分けて書いているような日もあれば、文章にすらなっていない日もある。あるいはまったく書いていなくて、日付だけが淡々と書かれているだけのページもある。
7月17日昼 カルネ。ポカリ。きゅうり。きすの天ぷら。焼きいか。鯖寿司。鱧寿司。コーラのグミ(かたい)。 (p.80)
それでも、単語の羅列でも、京都で食べ歩いている姿が目に浮かぶ気がするから不思議だ。「カルネ」は志津屋のパンのことだろうが、素朴なのに無二な感じがあり、京都に行くとつい食べたくなる。日差しがぎらぎらとした四条通の街角で、八つ橋や抹茶ラテと並んで冷やしきゅうりが売られていたのを思い出す。関東の人間としては、鱧と言われれば鴨川の川床を思う。
僕は中学2年生の頃から日記を断続的に書いていて、だからもう20年近く書き続けていることになる。Mac OS 8のSimpleTextで書き始めたのが最初で、媒体は紙を使っている時期もあったが、その後はEvernoteやDay Oneなどデジタルのツールを転々として、今はScrapbox (Cosense)を使っている。
別に大それたものではなく、『日記の練習』と同じように、1行しか書いていないような日もあれば、まったく書いていない日もある。というより、書き始めるときに「毎日書かなくてもよい」という「縛らない縛り」を付けて始めている。ひどく狼狽するような日々を過ごしているときに、それをすぐ書き留めるのは、勇気も根気も要る。「毎日書かねば」と気負わないことが、継続を支えている。
このブログは日常エッセイのような体裁のときが多いが、僕の場合、日記とブログは完全に切り離されている。日記の断片がブログに昇華されることはほとんどない。日常で見たり聞いたり感じたりした無数の断片は、頭のなかで常に煮込まれていて、頭のなかで漉されて、これは日記にしようとか、ブログにしようというところまでが、頭のなかで決まっている。当然双方に同じ出来事を書くこともあるけれど、大勢に読んでもらうための文章と、自分のために書き留める文章では、書きっぷりが全然違う。ブログを書くときは、この文章が一切読まれない可能性もあると思って書いているけれど、その実、読んでもらえたときのことを確かに意識はしていて、「編集の眼差し」は濃く注がれている。プロの文筆家が言う「編集の眼差し」とは、全然違うものだろうけれども。
「編集の眼差し」は、あるいは素直に書くことができないという意味にも成り得る、と思うときはある。書かないことと書くことの取捨選択。言葉にしなければ消えていく、失われていくものがあるが、言葉にすることで失われてしまうディティールというものも確かにある。HUNTER×HUNTERのクロロの台詞で、「動機の言語化か……あまり好きではないしな」というものがある。その背景が何なのかは作中で詳らかにされてはいないが、あそこまで理知的なクロロが「言語化」を嫌うことには、何か意味があるはずだ。
とはいえ、特にウェブの空間だと書かねば伝わらない。書くことしかできないから書いている。少しでもこの文字列に日々を濃縮したくて書いている。自分の生活をテキストとして残す、日記を練習する過程を、ずっと続けているのだろうし、ずっと本番でもあるのだと思う。