DM250と、書き留めるということと、わかりあえなさと。

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ポメラは初代のDM10を買ったことがあり、当時は大学生だったので授業の板書を取るのに使っていた。社会人になってからはPCを持ち歩くことが増えてポメラの出番はなくなり、いつしかプラスチックの経年劣化なのか、DM10はあの特徴的なキーボードが壊れてバラバラになって使えなくなってしまったんだけど、先日14年ぶりにポメラを、最新のDM250を買った。

PCを持ち歩くのがつらくなったというか、「長文を書く」「頭の中がごちゃごちゃしているのでとりあえずテキストで書き出してみる」という用途に、PCが重すぎたという理由に尽きる。考え事が頭の中でまとまらないときがよくある。忙しくて物事の優先順位がわからなくなることもある。そういうときにとりあえずPCを持ってコーヒーを飲みに行き、1時間ぐらいでダダダッと脳の中を書き出して整理するのだが、そのためだけに1kgちょっとの端末は重いし、いつでもPCを持ち歩いているわけではないから、ふと思い立ったときにサッと行動できない。その点、ポメラであれば620g。サイズも小さいので、リュックではなく小さめのショルダーバッグでも常に忍ばせることができる。

DM10から比べると、姿はだいぶ変わったが、本質は変わっていなくて、やはりとてもいい。ウェブサーフィンができない、ワープロ特化型の端末。脇道に逸れることが一切ないという、それだけで集中力が全然違う。サイズは小さくとも十分なタッチタイピングができるキーボードは備えており、集中力を阻害しない。のめり込める感覚がある。昔、手帳を使っていた頃は、机の手前側に手帳を広げて、その上に覆い被さるように猫背になりながら書き込んでいると、集中して書いて整理するための隔絶された空間が生まれるような、そんな感覚があった。ポメラの、画面を開けば数秒で起動して、手元に引き寄せてただ文字を打つしかないこれは、そのときの感覚に近い。ただもくもくと文字を書いて頭を整理する。PCでもアウトライナーを使ったりなんだりして似たことはしているが、どうも二手三手遠い気がするのと、裏にブラウザやら何やらが起動しているところで文字を打つのは、どこか落ち着かないのと。これは多分に主観的な話だが。

話は全然変わるが、入江亜季『北北西に曇と往け』を先日から読み始めた。その中で、趣味でアプリを作っている清という少年が登場するのだが、彼はPCを常に携えていて、時間があれば、自分が目にした景色などをすぐに書き留めている、という描写がある。アイスランドへ初めて降り立ってすぐ、彼は「空港とか景色の覚え書き」をしていた。

書き留めること自体に意味がある。僕が読んでいるのは2巻までで、そこまでだとただ書き留める描写が存在するだけで、彼がその後、その文章をどう活用しているのかは知らないし、そういう場面が今後出てくるのかもわからない。だが、活用する場面が別に出てこなくてもいいと思う。書き留めている描写だけで彼のパーソナリティを表すには十分だったし、何か特別な活用をしなくても、書き留めるということはそれだけで意味がある。個人の日常というのは、書き留めなければ簡単に霧散する。写真や動画で撮るのもいいが、そのときの内面までは記録できない。だから書く。書いて残す。記述されたテキストこそが、記憶や感情といった人間らしさを最も高い解像度で記録できると思っている。

記録は別に活用されなくてもいいと、そう書いたが、それでも公開したいときはあって、だからこうしてブログを持っている。書いたものを公開する。それはもちろん読んでもらうためではあるが、ひたすら大勢に読んでほしいということは考えていない。一時はそういう頃もあり、バズりそうなタイトルを付けてみたら見事にバズってしまい、はてブコメントが大量について逆にこわくなってからは、むしろバズりたくはなくなった。バズらなくていいし、バズらないことにも価値がある。

「情報とは差異を生み出す差異である」と書いたのは、グレゴリー・ベイトソンだ。あるいは円城塔は、「diffの間に無限の書物が存在する」とつぶやいた。私とあなたは違う。違うからこそ他方を知る価値があり、それは情報と呼ばれる。インターネットには無数の情報がある。その多くは同質的なものかもしれない。むしろだからこそ、わずかな違いであっても、「差異」をインターネットに残しておくことには価値がある。

実際、かつてある大きな事件があったときに、SNS上で多くを占めていた意見に賛同できず、心がつらくなって、意見をブログにしたためたことがあった。少ししてから、自分も最近この話題について落ち着かずにいた、この記事を読むことができて幸運だったというコメントをもらった。マイノリティかつ、世の中で道徳的とされる向きとは反対の意見だったから、むしろ批判的なコメントが来るかもしれないと思っていたし、それでも構わないつもりだった。SNSでは見かけなかった「意見を同じくする人」と巡り会えて、そのとき自分もまたひどく救われた思いがした。

差異とは異質とも言い換えることができ、必ずしも受け容れられるわけではない。先に引いたベイトソンの言葉は、ドミニク・チェンの『未来をつくる言葉』の中で知った。同書のなかでは、こうも書かれている。

結局のところ、 世界を「わかりあえるもの」と「わかりあえないもの」で分けようとするところに無理が生じるのだ。そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。「完全な翻訳」などというものが不可能であるのと同じように、わたしたちは互いを完全にわかりあうことなどできない。それでも、わかりあえなさをつなぐことによって、その結び目から新たな意味と価値が湧き出てくる。

未来をつくる言葉 ドミニク・チェン(著/文) - 新潮社 | 版元ドットコム (p.220)

わかりあえないかもしれないことを書き、それを「わかる」人と出会えたのは運が良かった。ただ、僕が先の記事を書いたのは、自分がSNS上の大勢を占める意見と「わかりあえない」からこそだった。エコーチェンバーのなかで、まるですべての人が同じ意見を持っているようにも見えるなかで、そうではない人もいるのだ、ということを確かに残しておきたかった。同質の空間に、わずかな差異を残しておくことこそが目的であり、「わかりあえなさをつなぐこと」がしたかった。それは別に多くの人の目につかなくても構わない。残しておけば、いつかどこかで誰かの目に触れるかもしれないという、その可能性だけで、書くに値すると思っている。

本質的にすべての人の経験は無二のものだ。誰もが似た経験や感情を経ていると思うかも知れないが、わずかであれきっと差異がある。だから差異というのは特別なことではなくて、本当は世に無数にあり、誰もが書くべき差異を持っていると、僕はそう思っている。

ポメラを、大事に使っていきたい。常に携えて、スッと開いて、記録する。その用途にこれほど適した道具はない。自分の思考を、新鮮なうちに、混じりけを含んでしまう前にひたすらに書き留めていきたい。そしてそれを臆さずに発していたい。インターネットの片隅に、わずかでも差異を生み続けていたい。エコーチェンバーから脱して、わかりあえなさを抱えて生きていきたいのだ。


この記事では、特別お題「わたしがブログを書く理由」について書いた。