伊勢うどんと、文フリと、『ぱらのま 6』と。

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デイリーポータルZの記事がふと流れてきて、あれ、この本文フリで買ったやつじゃん、と思った。 文学フリマ東京36 - the world was not enough の中でもバッチリ言及している。それもそのはずというか、著者の 玉置標本 さんはDPZでもライターをやっている。DPZはたまに読むけれど、そこまで熱心な読者ではないので頭のなかでしっかり結びついていなかった。

先日の文フリエントリーでも書いたとおり、この『伊勢うどんってなんですか?』を買ったのは、まさにちょうど伊勢参りに行くところだったからだった。伊勢参りの1週間前が文フリで。そんな偶然ある?と思いながら、そういう巡り合わせは絶対に飛びついておいたほうがいいので、迷わずに購入した。伊勢うどんの存在はそれまで知らなかった。伊勢自体は初めてではなくて、10年ぐらい前にも一度訪れたことがあるのだが、そのときはあまりちゃんと「旅をする」というマインドもなくて、たぶん気もそぞろな感じで、赤福本店でぜんざいを食べたぐらいしか記憶がない。とはいえ名物であればある程度どこかで耳にしているだろうし、この本も「なんですか?」って書いているぐらいだから、マイナー名物っぽい存在なんじゃないかと思っていた。実際のところどうなのかは、いまだにあんまりわかっていないけれど。

伊勢参りは自分が発端の旅ではなくて、親族の旅行に「一緒にどう?」と言ってもらって、おまけのような形でついていくものだった。だから自分の欲求は表に出しすぎないようにしようと思っていた。ところが翌日に伊勢参りを控えた1日目、近くの鳥羽にチェックインしてゆっくりとし始め、明日はどう廻ろうか、という話をしているときに、伊勢うどんを食べてみたい、という話がでてきて、これは僥倖とばかりに「実はこんなのがあるんですよ!」とこの本を取り出して、みんなで読んで予習をした。これはとても誠実な本だった。伊勢うどんを出すお店や、製麺所、スーパー、10ではきかない数の取材先に話を聞き、伊勢うどんとは地元伊勢ではどういった位置付けのものなのか、どのように食されてきたのか、どう作っているのかなどなど、様々な側面から伊勢うどんに迫っている。讃岐うどんなどに慣れている人からすれば「茹ですぎ」と思うぐらいにふわふわでもちもちの麺(1時間はかけて茹でるとか)で、汁をかけるのではなく、丼の底に入れられた真っ黒いたれを絡めて食べるうどん。たれはかなり濃い色をしているけれど、塩辛すぎるなんてことはないらしい。どの店のそれも美味しそうで、確実に食べたことのない食感と味が待ち受けていそうで、想像がどんどんとふくらんだ。

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結局のところ、この旅の流れでは3度「伊勢うどん」と名のつくものを食べる機会にありつけた。1回目はホテルのディナービュッフェの一角に置かれていて、ただ、これは「たれを絡める」形式ではなく、鍋物伊勢うどんも投じられているような、煮込みうどんのようなスタイルだったので、亜種に近いのではないかと勝手に思っている。食感は聞いていた通りふわふわで、そのときのつゆはかなり甘みが強く、本で読んだ「自分が食べてきたなかで、食感として一番近いのはだんご」という表現を思い出させた。2回目が伊勢参りのときに、内宮近くの 岩戸屋 で(上写真)。これは本にも掲載されていた店の1つで、なんとなく、これこそ王道の伊勢うどんではないか、と思いながら食べた。美味い。コシがまったくと言っていいほどないうどんで、苦手な人は苦手らしいのだが、我々は誰もが美味しい美味しいと言いながら食べた。とにかく柔らかくて温かく、出汁の旨味もあるので、伊勢参りでしばらく歩いた疲労のなかで食べると、とてつもない幸福感がある。その後、近くの赤福で餅もいただいたが、体力を消費する伊勢参りの参道で、うどんとあんこ餅が名物になるのは身体が理解する感覚があった。軽食というかおやつのような感じもあり、1人旅行だったらもう1件ぐらい行っていたかもな、と思うぐらいにはぺろりと食べられた。

3回目は帰宅後に、 二光堂 でおみやげとして買ったものを茹でて食べた(下写真)。当たり前だが家庭で調理できるようになっているので、長い時間茹でる必要はなく、普通のうどんと同様に3分で茹で上がり、付属のたれを丼の底に沈めて、かつおぶし、ねぎ、温泉卵を載せて食べた。岩戸屋のそれとはたれの味が異なり、もう少し酸味もあって、いくらかこちらのほうが食事という感覚が強かったが、個人の感性だとは思う。どちらも美味しかったし、これは普通にスーパーで買えたらいいのに、と思うぐらいには気に入った。検索してみると、都内でも伊勢うどんを供する店がいくつかはあるようで、機会があれば食べに行ってみたいとさえ思っている。

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この旅はなかなかに食い倒れていて、行きがけには乗り換えの名古屋駅で「あんまき」もいただいた。なんとなく存在は知っていたが、関東に住んでいる自分にとってはそこまで馴染みのある和菓子ではない。これは最近kashmir『ぱらのま 6』で、知立市の名物として載っていたので記憶していた。ただ、『ぱらのま』のなかでは「名古屋駅ホームできしめんを食べたいが、豊橋駅に着いた時点でおなかが空いていて、このあときしめんを食べるにしてもちょうどいい感じに腹を満たせる」ものとして描かれていたが、意外に大きくて最近のiPhoneぐらいはあって、「でかいな?!」と言いながらみんなで夕食前に食べていた(その後の夕食ビュッフェは無事に全員3周ぐらいしていたが)。

『ぱらのま』は良くて。ずっと好きで。自分にとっての「旅が好き」という感覚を言語化してくれているような存在で、ああ、そう、これこれ、わかるわかる、と思いながら、ずっと読んでいる。あまりそういう機会も最近はなくなったが、特に1人で旅をしているときは、日常における社会的なくびきが完全に外されて、別の人々の日常のなかに、イレギュラーのように、モブのように今はただ紛れ込んでいる、そういう感覚が好きなのだが、それが最新6巻でも言及されていて「それ!」となった。

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今でこそ旅が好きで、初めて訪れる街では、今日、今来なければ、もしかしたら一生来ることのなかった街の日常というか、今日この日を味わいたくて、スーパーでその土地の人が買うものを見たり、少し込み入った路地の奥まで探るのが好きだけれども、昔はそうでもなかったんだろうな、というのは、今回が2度目の伊勢参りなのに、前回の記憶がほとんどないことから気付いた。当時の日記は残っていたが、旅行の詳細はほとんど書かれていなくて、思い出す手がかりもない。そういうのが勿体ないなと思うのは、歳をとったからなのか、自分の嗜好が変わったからなのか。自分の生活や街もそうだが、ふと訪れた、誰か知らない人々が生活を営むその街というものも愛でたいというのを、最近は強く思う。