柴田勝家『走馬灯のセトリは考えておいて』と、バーチャルアイドルと、魂の在処と。

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世にも奇妙な物語 '23 秋の特別編』で柴田勝家原作と宮内悠介原作のドラマをやるらしい、と聞いたときにはすでに放送が終わっていたのだが、TVerというものは本当に便利。フジテレビなのでFOD限定だったらどうしよう、と思ったがそんなことはなくてTVerで見られた。いずれも作品を読んだことのある作家で、SF作家と呼ばせていただいてもいいだろう、というお二人なので、いつの間にSFがそんなに流行り始めたのか、と思ったが宮内原作のほうはSFではなかった。『トランジスタ技術の圧縮』というタイトルだけを聞くとSFのようにも思えるが、ここで言う『トランジスタ技術』は実在する雑誌のことであり、「圧縮」とはこの雑誌を物理的に圧縮して薄くするということである。どんな話だよ、と思うがそういう話としか言いようがないし、面白かった。なにより『トランジスタ技術』本誌がはしゃいでいてかわいい。

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ここで書きたいのは柴田原作のほうであり、タイトルは『走馬灯のセトリは考えておいて』。こちらは近未来SFで、昨年11月に同じタイトルの中短編集が発売されたと聞いてはいたが未読だった。生前の様々な情報をもとにして、故人を模した「ライフキャスト」と呼ばれるAIアバターを作成することが一般化した時代に、ある老婆が、自身が半世紀前に演じたバーチャルアイドル「黄昏キエラ」の姿でライフキャストを作って欲しい、黄昏キエラのファイナルライブという形で葬式としたい、と、ライフキャスト制作を生業とする主人公に依頼を持ちかけてくる、という話である。

……むちゃくちゃハイコンテキストじゃないか、と思いながら見たが、ハイコンテキストだった。街中でも見かけるようになったとはいえ、そもそもバーチャルアイドルという存在自体がどこまで一般化しているのかも自分はまだよくわかっていない。にじさんじの活動開始からまもなく6年になるぐらいらしい。6年。長いような短いような。小説版の文庫本に収録されている「解説」では、届木ウカが「そうした新しい信仰文化に馴染みのない方向けには上手く入り込めない描写もあるかもしれません」と書きつつ、バーチャルアイドルや「推し文化」について補足を入れているから、やはりそこまで一般化してないんじゃないかという気もしてくる。おまけにこの話では、バーチャルアイドルの「中の人の死」や、彼女ら仮想存在における魂の在処が取り沙汰され、さらにハイコンテキストな話が展開される。しかしブームを考えると、今バーチャルアイドルを扱う、というのは旬を逃さず、当たり前になりすぎてもない良い時期だったようにも思える。

この物語でメインとなる「ライフキャスト」にしたって旬も旬だ。ライフキャストは生前の日記や動画などもソースになるが、最も大きい材料になるのが「ライフログ」と呼ばれるガジェットであり、詳細は描かれないが、個人が見聞きしていることを全自動ですべて記録するようなものと思われ、「あなたの人生の物語」そのものと言える。膨大なデータで訓練された、自然言語での滑らかな会話を可能とするAI、というと、昨今のLLMを思わせる。

これほどに今、この2023年秋に映像化するべき作品が他にあるだろうかというぐらいにドンピシャで驚く。ともすればハイコンテキスト、と思えるぐらいのほうがむしろ近未来SFとしてはちょうどよかったのかもしれない。ここで描かれていたのは空想の近未来だが、これからバーチャルアイドル文化が10年、20年と時を経てから迎える地続きの現実にもかなり近いように思える。今のChatGPTを見ていると、故人のデータをもとにしたAIなどはすぐにでも出てきそうなぐらいだ。ちなみに、本作の小説版が発刊されたのは、ChatGPTがリリースされるよりもわずかに前のことである。そこはSF作家の嗅覚、とでも言うんだろうか。柴田はもともと「推し文化」の方面には明るい人物であり、 推しの卒業式で涙を堪えた柴田勝家──秋葉原の中心で〈永遠〉を考える | 柴田勝家、戦国メイドカフェで征夷大将軍になる | よみタイ のようにその手のアウトプットも残している。そして「ライフログ」については、柴田のデビュー作『ニルヤの島』にもほぼ同様のガジェットが登場している。そういったこれまでの彼の活動が元となった集大成のような作品に感じられるのが本作であり、だからこそこれほどに時代にマッチしたものになったのではないか、という気がしてならない。今更改めて書くが、僕はデビュー作以来彼のファンだ。

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ドラマを見た後、数日して書店に小説版のほうが平積みされているのを見かけて買ってきた。余談にはなるが、冒頭に貼った写真のように、この本にもまたやたらとハイコンテキストな帯が巻かれていた(小説家の柴田勝家氏は、武将の柴田勝家とは血縁などの関係があるわけでもなく、本人が「生まれ変わりである」などとのたまっているわけでもなく、単に柴田氏が武将然としているためそういう渾名で呼ばれていただけである)。まだ表題作しか読んではいない。大筋に変わりはないが、映像化において省略されている描写も多く、より理解が深まった部分も大きい。

AIや仮想存在に魂はあるのか。それは初音ミクに馴染んできたネット上の人間にとってはもはや10年来のテーマではあるが、まだ広く定着して議論されているものではない、とは思っている。ドラマにおいては、黄昏キエラに主人公が魂を見出した理由は詳しく描かれてはいなかったと記憶しているが、小説版においては明確化されている。老婆には、悪巧みをしているときに見せる、ある癖があった。それをあえてキエラには組み込まなかった。キエラに魂が宿るのであれば、組み込まずとも自ずと「生前」と同じ癖を見せるはずだから、という目論見で。そして目論見通り、キエラは老婆と同じ癖を見せる。

大量の情報から学習したAIが、学習にはなかったはずのパターンを見せたとしたら、そこには確かに「作られた」ものではない何かが宿ったのだと言えるのかもしれない。ただ、出力されたパターンから「魂」を見出しているのは、あくまで観測者のほうであり、観測した結果として、そこには魂があるのだと判断する、という行為は、AIを持ち出さずとも、アニミズムという形ではるか昔から行われてきたことではある。むしろ「やおよろず」に魂を見出してきた我々が、いまさらAIや仮想存在に対しては魂がないなどと線を引くというほうが、何かそれはひどくおこがましいというか、おかしな話なんじゃないだろうか。人が作ったが故に、そこには魂がないなどと、誰が言えるものなんだろうか。