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そのねこがうたうとき

物語偏愛者の詭弁と戯言

映画『屍者の帝国』に原作既読者が感じた違和と、その氷解について

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屍者の帝国、TOHOシネマズ川崎の舞台挨拶回で見てきました。原作既読なので当然のごとくネタバレ満載で書く。原作も映画版もネタバレする。ネタバレなしで言うと、

  • 原作既読者 => 一度見といて損はないと思う
  • 原作未読者 => 一度見といて損はないと思う

という感じで(適当)。まぁ実際のところアニメーションとしてよくできているし、架空19世紀末のスチームパンクともサイバーパンクとも言い難い独特の世界観は好きな方多いと思います。自分もこの小説の世界観は是非とも映像で堪能してみたいなぁと思ってたので、三部作の中でも一番楽しみでした。なおこの後の文章、書いてから読み直したらだいぶ熱っぽくなっててあれな感じです。結論からいうと表題通り違和感があったのだけど、舞台挨拶で直接お話を聴ける機会があって、それについては氷解しましたという話。舞台挨拶はもう聞けないので、代替としてパンフ買うことススメます。作中では伝わらなかったことが監督と原作者の言葉でいろいろ補完できる。

で、原作既読の立場で言えば、というか言うまでもなくこれは小説版とはまた別の『屍者の帝国』だ。結果としてそうなってしまったわけではなく、意図してそう作られたものだ。それは牧原監督が自ら語っているところで、尺の制限故に内容を絞らざるを得なかったという面と、彼が表現したいものが映画版のワトソンとフライデーの関係性として紡ぎ直されているという面がある。ちなみに円城もパンフ内で「また新たに、オリジナルの作品を展開してもらうのが最善だとは思った」と語っているが、その思いが多少なり結実した結果の脚本だったのかどうかまではわからない。

だから「原作ガー」とどうこう言う気はない。自分はやはり、原作で導かれた「魂」=「言葉」という帰結が好きだったし、史実や種々のフィクションを借り受けながらも、それらを過度に侵食することなく上手い具合に滑り込ませていく筋立てにワクワクした。映画版のワトソンは小説版のそれより感情が豊かであり、何より旅に対して能動的な(かつ、ある種歪んだ)目的がある。導き出される魂の正体、ヴィクターの手記の正体、そして一部登場人物の行く末さえも原作とは異なる。だがワトソンとフライデーの友人関係として新たに落とし込まれ、どうしても視覚的な効果が必要と成る映画の体裁として仕立てるために、派手にアクションを追加したこの物語もまた、魅力あるものだと思う。

しかし、それでもただ一つ腑に落ちなかったのが、伊藤の遺した草稿部分にあたるストーリーが全カットされていたことだ。

オリジナルの脚本で構成された、ワトソンによるフライデー起動の儀でアバンを終えた時点でまさかとは思ったが、その後も草稿にあたる脚本の補填はなく、物語は続いた。いかなる改変が赦されようと、その一点だけは変えてはならないと思っていた。この一連の映画群がProject Itohを標榜するのであれば、形だけでも彼の言葉を「外す」ということではするべきではないと思った。結局映画全体の出来にはそこそこ満足しつつも、最後までその違和感が拭えず、予定されていた舞台挨拶もわりとしんどい気分で迎えることになってしまった。

が、自分でも想定していなかったが、助かったことに舞台挨拶の中で監督自らその点に言及してくれた*1。曰く、やはり尺が足りなくなったのだということ(結果としてヴァン・ヘルシングの存在ごと消えている)。そして冒頭部を別の形で構成するにあたっては、円城が伊藤の草稿から受け取ったものはなんであるかを考え、そして生まれたのがワトソンの「おかえり、フライデー」という第一声だったということ*2

だとすればこの映画はやはり、単なる魂と意識の謎を巡る冒険ではなく、ワトソンがフライデーの魂を取り戻すまでを描きたかった物語だったということになる。この映画は結局のところそれに尽きるのだ。円城は文庫版あとがきで「伊藤計劃の名を語り継ぐこと、その忘却を阻止すること、という傲慢な意識がなかったと言うつもりはないし、こうして積極的に不死化にかかわっている」と書いているものの、物語自体はあくまで抑制的に、物語としての生、言葉で伝播していく個人の物語というテーゼを配置するにとどめ、伊藤から継いだ物語の在り方を示すのみだった。だが映画はより直接的に、ワトソンとフライデーの関係に仮託して、死者の言葉の復活を、魂の蘇生を求めた。ただそれだけの話なのだと思う。ここにおいて円城が試みたことと、牧原監督が表したものは、伊藤計劃の「継続」という点で一致する。この方々は賛否あれどProject Itohを本気で進めようとしていて、その幕開けの言葉が「おかえり」だったのだなぁと、監督の言葉で腑に落とすことができた。そう考えると、当初の公開順が入れ替わり、『屍者』が最初に封切られて良かったのではないかと思える。

もちろん不満がないわけではない。ハダリーは魂がないくせにやたら人間味に溢れていて、グラント暗殺未遂の描写が削られているがために彼女の「異常性」もクローズアップされることはない。だから彼女が何を求めているのか、今ひとつ共感ができなかった。またそもそも菌株の設定がなくなってしまったので、彼女の屍者操作も完全に「魔法」でしかなくなってしまっている。あと悪役やらせるのはいいけど、M殺しちまってどうやってこの後のホームズの物語は続くんだよ!*3とか、ヴィクターの手記ってアリョーシャのあの技術が書かれただけのものだとしたら、ワトソンにインストールした結果別人になるって辻褄合わなくね??(なんか手記の設定見落としてる??)とか、まぁまぁいろいろとある。

ただ一方でこの短期間で作ったにしてはなんとも濃密な画面であったり、アフガニスタンの旅路の早回しの間できちんと阿片栽培の描写を背景に入れ込むとか、ロンドン塔に鴉を配置するみたいな細かいところをちゃんと描いていたり、真摯に作られている映画だった。なによりエピローグのフライデーの独白、彼の「ありがとう」という言葉をカットしなかったこと。これは文庫版あとがきを読む限り、伊藤計劃自身の言葉が反映されたものであろうが、死に溢れたこの物語において、この台詞が一番の救いだと自分は思っている。

時同じくして原作の再読も終えたので、もう少しきちんと考察したりはまた改めてしてみたいと思う。いつまで伊藤計劃にすがるんだみたいな声があったり、マングローブの倒産だったりでなんとも不安なProject Itohだが、その意図するところは今回の映画と舞台挨拶で、自分としてはだいぶ読み取ることができた。おかえりとありがとうを、まずは言いたい。

細かいツッコミ

  • 「下着じゃないから恥ずかしくないもん!」カットしなかったのは素晴らしい決断。あれめっちゃ大事。
  • 一方で山澤がワトソンにプレブナで英国に世話になったと語り、ワトソンが「英国が参戦した事実はない」ととぼけるところなど、ちょっとわかりにくいけどニヤニヤできる台詞も残されていたのは良かった。
  • グラント閣下もっと尊大な人だったように思う。てか全体的にredjuice氏が手掛けていないと思われるキャラデザがイマイチ。。。
  • 登場人物削ったのはいいけどヴァン・ヘルシングはワクワクポイントの1つ、というか伊藤の草稿で偉大だったポイントの上位だと思うので外しちゃダメだと個人的には。
  • ザ・ワン=チャールズ・ダーウィンの図式も削られたけど、キャラデザは完全にダーウィンな件。
  • クラソートキンがあえて回り道したことを、監督は「辿り着けば死んでしまうから」と言っていたが、彼のキャラクターを考えるとやっぱりそこは「アリョーシャを死なせたくない」であってほしかったなと思う。あの2人の改変は絵的には成功だが、個人的にはもにょる。
  • 解析機関を描いたアニメーションってひょっとして初めて?
  • 解析機関たぎるよー。名前もカットせずに残してくれてありがたい。大塚さんが「チャァアーーールズ・バベッジ!!!!」って叫ぶのめっちゃいい。あわよくばヘルシング役でやってもらいたかったが。
  • それライティングボールじゃなくて外部脳じゃね?
  • 声優陣の演技は文句なし。特に花澤さんああいう固めの演技もできるんだなーというのは自分としては新しい発見。
  • ていうかはなざーさんかわいかった(舞台挨拶)
  • かわいかった(Twitter合わせるとこれで5回目)

*1:上映前に見ていなかったのだが、パンフでも多少触れてはいる

*2:細部は異なるかもしれないけど、そんなことを川崎の舞台挨拶で仰ってました。

*3:パンフに各キャラクターの元ネタ開示のページがあって、ここでは007のことしか書かれていないので、どうも映画版の「M」はマイクロフトではないようだが。