ドミニク・チェン『未来をつくる言葉』

「わかりあえなさをつなぐために」と副題が付けられた、言葉を巡るエッセイ集。僕は大学での専門が言語社会学であり、言語や言葉に関する本についつい手が伸びる。これも営業終了が迫る八重洲ブックセンター本店で衝動買いした。

言語を用いたコミュニケーションというのは、本来はわかりあうためのものではあるはずだが、わかりあおうとするということは、前提として「わかりあえなさ」が存在していたことになる。「わかりあえなさ」をつなぐため、克服するために言葉は渡っていく。と思いがちだが、実際は言葉を交わしたところでわかりあえないことだって多い。コミュニケーションの目的とは実は、「わかりあう」ことには無いのではないか、ということが本書では描かれる。

そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。(p.220)

「わかりあえなさ」というと随分口語的な表現に聞こえるが、本書ではこれと類似した表現として、ベイトソンの「情報とは、差異を生み出す差異である」という定義を引いており、「わかりあえなさ」とは差異、差分、differenceであると言い換えられる。「私は貴方ではなく、私である」とは、伊藤計劃円城塔による『ディファレンス・エンジン』の解説冒頭にある言葉だ。私と貴方は異なる存在である。そこには差分がある。差分があるからこそコミュニケーションが生まれ、価値が生成され、物語が生まれる。『ディファレンス・エンジン』は、階差機関の実用化という、史実との差分が展開していく物語だった。

難しいのは差分を、わかりあえないことをそのままに受け容れていくことだ。SNSではフォローができる一方でブロックも容易であり、わかりあえないものは見えないものとして簡単に拒絶できてしまう。このように、見たい情報しか見えない空間に隔離されていく現象は「フィルターバブル」と呼ばれ、本書においてもこれに触れた一節がある。インターネットの発達により、間違いなく書き言葉としての言語の情報量は人類史において類を見ないほどの量になっているが、その帰結が無数のバブルが孤立しあった世界というのは確かにやるせなさがある。僕も2019年の折、同質的な意見が跋扈するSNSに嫌気が差して、 グレーを受け入れること - the world was not enough というエントリーを書いたことがあった。あの頃からそれほど状況が変わった気はしない。

変わったとすれば、人間によらない言葉の生成がかなり容易になったことだろうか。粗製濫造される「いかがでしたか?」ブログがGPT-4などの登場で加速するのではないか、という読みは、わかりあえない世界の歪みをも加速させてしまうようにも思う。 「文章を改善する」 - ぱろすけのブログ で言及されているように、通常の文章をAIに書かせたほうが「良い文章」になる可能性もあるのだが、言葉は自分で紡ぎたい、というのはこちらのブログ主と同じ思いだ。ChatGPTと言語を巡る話は、ちょっと本書の話からはズレるので、またどこかで改めて書きたい。

ともあれ、「わかりあえなさ」がなかなか受け容れられていない現在の世界を単に嘆くのではなく、どうにかしてその先を見据えていこうと様々に思考しながらもがく、非常に温かみのある本だった。サピア=ウォーフの仮説、言語相対論、生成文法テッド・チャンクロード・シャノンなどなど、言語や情報といった分野を好む人であれば確実に通ってきているであろう数多の要素が散りばめられていることもあり、とても楽しく読めた。