2020年7月 - デカダンス / ハイキュー!! 終章 / USG 2020 "LIVE (in the) HOUSE" 他

最終話ネタバレを含めた『ハイキュー!!』の話を最後に配置しているので、ご注意を。

デカダンス


TVアニメ「デカダンス」本PV

2話が分水嶺で、そこまで見ればハマる人はハマるし、ハマらない人はハマらないだろう。とにかく損はないので2話見てほしい。1話でもうハマる人はハマるだろうが、とにかく2話が肝である。

個人的には久しぶりに目が覚めるようなアニメが来たぜ!という感覚。巨大移動要塞、アクロバティックでキレのあるアクション、テンポの良すぎるストーリーなどなど、刺さる要素が非常に多いのだが、中でも「おっさん meets ガール」がすごく刺さるので加齢を感じる。無垢な少年が、少女の出会いで力を与えられるのではなく、枯れたおっさんと無垢な少女の出会いにそそられる。この出会いがどういう方向へ突き進んでいくのかがひたすらに楽しみ。

UNISON SQUARE GARDEN『USG 2020 “LIVE (in the) HOUSE”』


UNISON SQUARE GARDEN「春が来てぼくら」ショートver.

今月も配信ライブを視聴。 UNISON SQUARE GARDEN 。福岡で5月だったか、ヒトリエとのツーマンを見る予定だったのが流れて、それ以来となった。

配信ライブというのはどうしても物足りない。音圧もなければ、あの暑苦しいが嫌ではない、独特の熱気も興奮もない。音は群衆によって「吸われる」ことがなく、ただ壁に跳ねて大きく響くので、いつもと音の聞こえ方も違ってくる。それでも生で音楽を演奏して届けてくれようという、その思いだけでも嬉しくなる。

ファンアンケートの上位30曲を元にしたということで、セトリに関しては申し分ない。昨年末のアニメ主題歌だった『PHANTOM JOKE』は、これが「ライブ」で聴く初めての機会にもなった。アンコールは新曲『弥生町ロンリープラネット』から。タイトル通り「そして、ぼくらの春が来る」というフレーズで終わるこの曲から、シームレスに『春が来てぼくら』に繋げるのはたまらないものがあった。春が来る。きっと来るのだろう。来なくては困る。

映画『泣きたい私は猫をかぶる』


本予告『泣きたい私は猫をかぶる』公式 (6/18配信スタート)

スタジオコロリドの最新長編映画。もともと劇場公開を予定していたところ、昨今の事情を鑑みて Netflix 配信に変更となった。これだけのために Netflix を契約をしたものの、他に見るものもないし解約しようかと思うのだが、そういえば『BNA』がネトフリ限定だったことに気付いたので、それだけ見ておこうなどと考えている。

閑話休題。全体を貫くテーマは「言いたいことが言えない」「自分に素直になれない」という思春期にはよく見られるであろう悩みだ。そこに「猫に化ける不思議な力」が合わさることで、生身の人間でいることより、「猫をかぶって」いたほうが上手くいくんじゃないか、という葛藤が立ち現れてくる。現実的な悩みや不和と、ファンタジー要素が絡み合う作品であり、全体としてはそれなりの爽快感もある。ただ、正直なところキャラクターにせよストーリーにせよ掘り下げが浅く、無難に食べられる薄味の料理、という具合ではあった。あるメインキャラクターに、中盤大きな心境の変化が訪れることがキーになるのだが、それが若干唐突な感があり、入り込みづらさを感じた。

コロリドの作品を『陽なたのアオシグレ』『ペンギン・ハイウェイ』『薄明の翼』などと見てきて感じるのは、子どもの視点というものを非常に重視しているのかな、ということだ。子どもから見た世界。それも等身大の世界。未知に溢れていて、ときに辛くて悲しくて、でも可能性が確実にそこにあるような。そういう優しさの視点を、コロリドのアニメからは受け取っている。

劉慈欣『三体 II 黒暗森林 下』

三体Ⅱ 黒暗森林(下)

三体Ⅱ 黒暗森林(下)

いろいろと裏切られた。キャラクターにも展開にも。この II における結末については、予想できた人はいるのだろうか。ここでまさかこうなるだなんて自分は思っていなかった。 III は一体、ここからどういう風呂敷を広げるのだろう。

何を書こうかと迷ったが、この本についてはやはり何も書けない。何を書いてもネタバレになりそうだ。

古舘春一ハイキュー!!』最終話

物語の主軸部分を終えたあと、数年を隔てた物語を「最終章」として描くというのはそれなりにありふれた手法ではあるが、あくまでその内容はエピローグとして、おまけ、あるいはカーテンコールのようなボーナスの意味合いであることが強い。一方で『ハイキュー!!』の場合においては、描きたいことの大半が終章に、あるいは最終話のわずか20ページ程度のなかに詰め込まれていたように感じている。

春高編の終わり方には納得がいっていなかったというのが本音である。メタな見方をしたときに、鴎台に負けるというのは予想だにしていなかった。あれほどフォーカスして、烏野の選手にも大きく影響を与えていた木兎と戦わずに終わるというのは、もったいないなと率直に感じたし、フィクションの中のことながら、先の試合が見られないことが悔しかった。

全国大会優勝というのは、多くのスポーツ漫画が配置するゴールだ。同じジャンプで言えばテニプリも、アイシールド21も、黒子のバスケもそうだった。『ハイキュー!!』においても、春高編まではそれがゴールのように見えていた。だから敗北が悔しかったわけだ。でも、それは本当に「ゴール」なのか。高校という一時期を終えても人生は続くし、バレーボールプレイヤーとしての生活も続く。そしてその中では無数の敗北を経験する。かつての敵と後に味方になり、また敵となって相対する。そういった長い戦いの1つと見たときに、鴎台戦の敗北は通過点として置き直される。このときの春高の優勝校は、一林高校という作中における無名校だったし、あれだけ厄介だった及川も、日本では無名選手と言われてしまうのだ。あの烏野の春高が、世界のすべてのように思えていたが、決してそうではないし、バレーボールはそこだけで行われているのではないのだと、終章は幾度となく突きつけてくる。

この漫画は敗北から始まった。それを勝利で終わらせるでも、敗北で再び終わらせるでもなく、延々とつないでいくバレーボールの連環の、ただひとつの通過点に位置づけ直した。何かを成し遂げれば、あるいは成し遂げられなかったとしても、それで終わりというわけではない。バレーボールを仮にやめたとしても人生は続き、人は常に挑戦者足り得るのである。最終話、終着点に行き着いたにも関わらず、サブタイトルが「挑戦者たち」なのが、すべてを物語っている。

Image from Gyazo