the world was not enough

物語偏愛者の詭弁と戯言

さようなら、すべてのエヴァンゲリオン

ネタバレを含みます。

Image from Gyazo

『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』という文字列をどう書けばいいのかどうにも悩む。実際に使われているのは五線譜の反復記号で、これには Unicode も割り当てられているので、今回それを使ってみた。が、どうにも見栄えがよくない。実際のロゴのように見せるには『シン・エヴァンゲリオン劇場版 :||』というようにバーティカルバーとコロンを使ったほうがいい。だが、これでは線の太さが再現できない。「:|❙」のほうがいいか。今度は長さがダメか。まぁ面倒くさいので以下、「シンエヴァ」と書く。

二度の上映日延期となった折、数は少ないものの、「また延期か」「知ってた」「まだ出来てないんじゃないか」といった声を目にすることがあって、軽口だったのかもしれないが、それがわりと不快だった。旧劇場版での顛末があったので仕方ないことなのかもしれないが、しかし新劇場版については、上映期日が決まってから延期となってしまったのはこれが初めてのことだ。公開時期に関しては果てしなく遅延してきたが、上映すると決めたらきちんと完成させて、上映してきた映画シリーズではあった。まぁ人がどう言おうと別にそれはその人の自由ではあるのだけれど、僕はこのシンエヴァがきちんと制作され、公開され、そしてエヴァンゲリオンがきちんと終わるということに、ある程度の信頼を置いていたのだと思うし、それをあまり茶化してほしくはなかったのだと思う。おそらくそう思うようになった契機は、『シン・ゴジラ』を見たことだったように感じている。


『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本予告・改【公式】

その信頼に全幅で応えてくれた映画だった、というより、「エヴァンゲリオンを終わらせる」ことに全力を注いだ映画だった、というべきか。良い意味でも悪い意味でもそう感じた。

『Q』で感じたあの悲壮感、シンジが全世界から恨まれているかのような孤独感はなんだったのかと思うぐらいに拍子抜けするような展開。前半だけで「救われた」と思ってしまった。また「土の臭い」を感じる場所へ戻ってこれたことに安堵した。トウジじゃないけど、もうつらいことはやめて、ここで余生を送り幸せになってくれ、と思った。思いかけた。これで終劇でも別にいいよと思った。トウジとケンスケが生きているなんて思わなかったし、最初にトウジが出てきたシーンは「これは夢か幻なのでは?」としばらく信じられないぐらいだった。これだけでシンジはもう立ち直れるんじゃないかと思った。全然そんなことなかったわけだけど。

シンジがサードインパクトのきっかけであったことは間違いないが、しかし彼だけに責任を負わせるべきではないという大人の意見。ヴィレの面々が、一部を除けばシンジを恨んではいないという真相。あれにはちょっと、いやだいぶびっくりしてしまった。その言葉、『Q』の時点でちゃんと言ってあげていたらフォースインパクトには至らなかったんじゃない?って思ってしまう。僕は『Q』についてはディスコミュニケーションの物語だったと思っている。旧劇場版のような「話してもわかりあえない」「求めても拒絶される」という物語ではなく、「そもそも話さない、交わらない」物語に変わってしまったことが、あの映画に覚える居心地の悪さの正体だったと捉えている。それはやはり当たっていたんだな、と今回確信に変わった。ディスコミュニケーションがそもそも存在しなければ、『Q』の物語は成立していなかった。

そういった、作劇上「ご都合」のように感じる部分もなくはないが、とにかくエヴァを終わらせた。

メインのキャラクター1人1人ときちんと向き合い、別れを告げ、あるいは思いを告げ、これまでのエヴァからはなかなか想像できないぐらいに、丁寧に物語を畳んでいった。旧劇場版で、エヴァ初号機とともに永遠を生きることを選択したユイが、今回は自らエヴァを終わらせる。伏線、というのか、物語の構造に関する説明も笑ってしまうぐらいに丁寧で、ネブカドネザルの鍵がちゃんと回収されるとも思っていなかった。とはいえ、構造を理解はしていない。雰囲気なんとなくの理解はしたが、例えばヴンダー的な船4隻の意味とかサッパリわからん。オップファータイプってなんやねん、とか。しかしそこはあまり重要ではない気がしている。エヴァと言えば「謎めいた物語」が魅力の1つなのは確かだが、旧劇場版も今回も、それは道具の1つでしかなくて、制作者が伝えたいところは別にある。それが今回はまっすぐに伝わってきたから、これでもういいんだ、という思いになれた。

ちなみに、この展開は『Q』のあまりにあまりな絶望っぷりから、急遽方針を転換したものなのかなと考えていた。しかしパンフレットによれば、『Q』公開の折、ケンスケ役の岩永哲哉のもとに「次はケンスケが出るから見ておいてほしい」と鑑賞券が送られていたのだという。ならば『Q』公開の時点でこの筋書きはある程度予定されていたわけだ。新劇場版は、予定していたプロットがくるくる変化しながら作られているのはもう自明と言っていいし、そう明言された部分も多いが、その実そうではないところ、当初から予期されたままの部分も当然ながら存在していて、これは「気まぐれのご都合」のようなものでもおそらくないのだ。そこは設定資料などを紐解けばわかるんだろうか。

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「終わらせる」上での重要なファクターはもうひとつ。碇ゲンドウにフォーカスしたことには納得感しかなかった。言っては何だが、シンジについてはもう半分答えが出ているのだ。彼はどれだけ酷い目に遭おうと、どれだけ辛酸をなめようと、最終的には他者を望み、他者との関係性の中で自己が確立されることを望む。それは旧劇場版で一度描かれ、『破』でも『Q』でも、他人との触れ合いの中に活路を見出している。あとはもう半分、彼が触れ合うことを望んだ他者が、自分を受け入れてくれることを実感するだけでよかった。 そんなシンジに対し、旧劇場版ラストのアスカはわずかな言葉でしか応えてくれず、『Q』に至ってはすべてを失う展開が待っていたが、今回ようやく、周りもシンジのことが好きなのだということに、TV版最終話と同じ地点にシンジ自身が至ることができた。彼の「ここにいてもいい」という思いは早々に確立され、ストーリーはその先へ、では「ここ」で何を成すのか、というところへ進んでいく。

ゲンドウはこれまで一切救われていないし、掘り下げもない。旧劇場版では一様の「落とし前」はつけられてはいたが、一方的な罰という趣が強く、本人の内面にどれほど影響したかはいまいちわからない。すべての発端がこの男だったにも関わらず。円環の物語であるエヴァを終わらせるというならば、物語の発端となっているゲンドウと向き合い、彼を停めるということは作劇上必須だっただろう。エヴァにエディプスコンプレックスを重ねる言説は昔から見られるが、明確に父と文字通り刃さえ交え、「父殺し」に近いところまで行き着いたのは、今回が初めてだった。それでいてシンジが母親 = レイとのエンディングを迎えることはなかったというのは、オイディプス的な物語からの脱出という意味で、これもまた「エヴァの終わり」を思わせる。

ゲンドウがその最後、シンジの中にユイを見出したのは、シンジが感じ取ったように、実際彼女がシンジ(初号機?)の中に存在していたということではなく、シンジこそがユイの遺したもので、シンジに向き合うことでしか、ユイに「遭う」ことはできなかったということへの気付きだったんじゃないだろうか。彼に初めて芽生えた「父性」を、この最後の最後のシーンで感じ取ることができた。

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旧劇場版で既視感のあるシーンをリファインしながらも、どこかズレていく。これは『破』でも見られた作劇だが、今回については、旧劇場版で言うリリスこと、巨大綾波と目が合ったミドリが真っ向から「変!」と言い放ったのが大きなインパクトだった。旧劇場版においては、巨大綾波の「すり抜け」を受けたマヤが恐怖の声を張り上げ、その後の展開はシリアスなものとして位置づけられていく。でも今回のアレは「変!」なのだ。意識的なのか、首無しのインフィニティたちがエヴァのような姿形から、女性を模したマネキンのような姿形に変化し、大群でぞろぞろ更新するようなシーンについては紛れもなく「変」だった。あのひたすらに気持ち悪い、人によってはトラウマのような旧劇場版が、別の文脈のなかに再配置されていく。「終劇」の物議を醸した砂浜で、アスカとシンジが互いに「好きだった」ことを打ち明けるシーンなんて本当にたまらなかった。

ミサトさんのシーンではボロボロ泣いてしまった。周りからすすり泣きも聞こえてきていたし、ありゃ泣くしかないだろう。やっとミサトがここにたどり着いてくれた、という思い。『破』でシンジに「行きなさい」と言ったミサトが、『Q』では「何もしないで」と冷たく言い放つという矛盾については散々揶揄する声を聞いたが、ようやく彼女が、シンジの背中を押しながら、その責任を自分が引き受ける、と言うところまできた。その直後に彼女は、旧劇場版と同じく腹を撃たれる。ただ、シンジを焚きつけている最中に流れ弾のように被弾した前回と、自らシンジを守るために撃たれた今回とでは、その銃弾の意味合いは大きく異なる。撃たれたあとのミサトに狼狽えるわけでもなく、シンジが「リョウジに会ったよ」って話をするところで涙腺がもう一度刺激されて。旧劇場版の女なのか母親なのかよくわからない立ち位置でもなく、上司と部下の関係でもなく、ああこんなにフラットな目線でこの2人が話せるようになったんだ、ってことが、シンジと他のキャラの関係性のなかで一番うれしかった。母性の象徴としてユイではなく、ミサトが選ばれたことが、この作品の帰結としてとても自然に感じられた。

マリの位置づけは驚いたが、エヴァンゲリオンを終わらせるというのはこういうことなのかもしれない。シンジが14歳のその先に踏み出すのであれば、彼の手を取るのはずっと描かれてきた2人のヒロインではなく、『破』においてエヴァを破壊するために投入されたという、マリ以外にいないんだろう。意地の悪い言い方をすると、最後までオタクにとって都合の良い感じのキャラクター造形だったな、とは思った。でもそれでいいしそういうマリが好きだ。『破』を劇場で5回見た時点で気付いてはいたが、僕は庵野作品が好きだけど、それ以上に鶴巻作品が好きだし、鶴巻的なキャラが好きなのだ。ミサトとともにガイウスの槍で特攻しながら、人間を賛美する台詞を叫ぶシーンにはかなりの鶴巻感を覚えたし、ガイナ立ちで殉職するミサトさんを幻視した。真希波は『Q』まではよくわからないキャラクターだったけど、その造形も妙なテンションもずっと好きだった。だから8(+9+10+11+12)号機から飛び降り、海から髪を振り乱して立ち上がるあのシーンのなんというか、ようやく得られた「正ヒロイン感」みたいなものに容易くやられた。あのシーンをもう一度見たい。パンフにあるかなと期待したらなくってしょんぼりした。

彼女のシンジに対する思いは……ラストシーンに至る経緯は別として、最終決戦や『Q』のラストにおいて、彼を「迎えに行く」と言った裏にある思いはなんだったんだろう、と考える。結局断片的にしか描かれなかったが、新劇場版における彼女の正体は、貞本版エヴァの EXTRA STAGE『夏色のエデン』で描かれたのと同様、ユイやゲンドウと同級生(ただし年齢は下)であり、その後「エヴァの呪縛」により成長が止まったものというもので良さそうだ。とすると当初は、ユイの忘れ形見として、シンジを守ろうとしていたという解釈でいいんだろうか。とするなら、3人のヒロインの中で、マリだけが唯一シンジを、その始まりからずっと見続けていた存在であったということになる。そのメタ的な意味でも確かに、「正ヒロイン」の位置にいたのかもしれない。


宇多田ヒカル『One Last Kiss』

終わるということには結構抵抗があった。正直に言って、「いつまでも終わらない」ということを含めて、エヴァンゲリオンをエンターテインメントとして楽しんでいた節があった。いつか終わることが約束されてはいるが、その「終わり」がいつ来るかはわからず、そして終わりに至る過程さえも供給されない物語というのは、ハマるにはとても安全なのだ。いつまでも「過去のもの」になることはなく、現役のコンテンツであるという顔をして楽しんでいられる。それでいて、すでに与えられている続きまでを如何様にも掘って、何度でも見返して楽しむことができる。終わりがこないということは人によっては消化不良になるかもしれないが、僕にとっては魅力だった。ただし、『HUNTER × HUNTER』のように実際いつ終わるかもわからないコンテンツはちょっと別だ。終わりがこないからずっと楽しんでいられる。しかし、いつかは必ず終わるとされていて、生きてさえいれば、この物語の結末を味わうこともできる。そこには不思議な安心感が生まれる。冒頭に書いた僕の「信頼」というのは、詰まるところ自分のその「安心感」を担保するためのものだったのかもしれない。一方で、このずっと耽溺してきた心地よさが崩れてしまうことは怖かったし、結末が自分にとって望ましいものではなかったらという不安感も強かった。

カヲルが「円環」という言葉を口にしている。あれは一時期騒がれていた、旧劇場版と新劇場版における時間軸のつながり、ループを直接的に指すものというよりは、エヴァという物語自体が繰り返されてきたという、メタな意味合いが強いんじゃないかと思っている。詰まるところ、その円環の中で「安心」していたわけで、今回それが壊されたのだが、その実見終わったときの気分は穏やかだった。完膚なきまでに終わった。これで本当に最後なのだということが、すっと腑に落ちた。

もちろん、まだ見たい物語はある。マリが8号機から降りたシーンから、宇部新川駅のシーンまでの間とか補完してくれたら泣いて喜ぶ。でもメインキャラクターたちの物語がすべてきちんと描かれ、シンジは変声期を経て、僕の知らない声をした男になった。それでもう十分だった。

ちなみに最後にわりとどうでもいい感想を言うと、あそこで神木隆之介はズルくない……? エンドロールで「神木隆之介」の文字列を見て、2秒ぐらい首を傾げたあとに得心してすぐ「あっ、ズルい!」って口から出そうになった。何がズルいのかは自分でもよくわからないけど、神木くんはズルい。しかも一番最後の最後、声変わりした碇シンジなんていうところに神木隆之介を当てるのはズルい。いやズルい。ズルいでしょ。ズルくない?? 他のどんな声優が当たっていてもズルいとは思わなかったと思うんだけど、そこに神木くん当ててくるのはとにかくズルいなぁって思っちゃう。そういうキャスティングありですかぁ……。いや、褒めてるんだけども、これ。

1回見ただけの新鮮な感想を勢いで書こう、と思ってこのエントリーを書いているので、内容について記憶違いは多少あるかもしれない。最低でもあと1回はまた見ると思うので、その後にまた補完的なエントリーを書くかもしれないし、思った以上に満足感を得てしまったので、もうこれを最後にエヴァについては書かないかもしれない。「さようなら」は「また会えるように」というおまじないだって、作中でヒカリに言わせたのもそういえばズルかったよな、と、タイトルに「さようなら」を書きながら思った。