BLEACH 千年血戦篇

BLEACHのコマ割りは非常に映像的だ。象徴的なところで言えば、あのマンガは、紙の上で展開されているのに「画面が暗転」する。

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久保帯人BLEACH―ブリーチ― 61』集英社 2013.

これは542.の最後のほうのページで、BLEACHではよくあることだが、この話ではサブタイトルが扉(そもそも扉というものはこのマンガには多くないが)のあたりで掲載されず、この場面で初めて出てくる。サブタイトルの意味が作中で提示されるところで、暗転したコマとともにバシッと印象的に表示してくる、こういうのを読むと「BLEACHっぽいな」って感じる。

このマンガから感じる洒落っ気というのは言葉遊びや台詞回しもあるが、根源的にはこのコマ運びのリズムにあると思っている。時に1ページで2、3コマぐらいしかないぐらいに大きくコマを取ったり、暗転やズームイン/アウトによる緩急をこれでもかと言うぐらいに付けていて、読んでいて頭の中に映像として展開しやすい。ああ、こういう演出って映画とかであるよな、という、映像的な文脈に則っているから。絵にはメリハリがあって、そのシーンでの登場人物が多くてもあまり混乱することはなく、サクサクと読んでいける。マンガを読んでいると言うよりは、ともすればMVでも見ているかのような。『BURN THE WITCH』の冒頭あたりもそうだった。

今回の『千年血戦篇』のアニメは、この原作の映像的なリズムをそのまま落とし込んでくれていた。小コマと大ゴマのように、さすがに映像で表現できない部分もあるが、可能な範囲では全力を尽くしているなと思う。先ほどの「暗転」に伴うサブタイトルの表示は、アニメではもう完全にそのまんま演出に取り込まれた。

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BLEACH 千年血戦篇』13話

サブタイトルを見せるタイミングも毎回異なる。全部確認してはいないが、原作での掲載位置を尊重していた話が多かったんじゃないだろうか。いわゆる巻頭詩を次回予告に使う演出含め、原作の味わいを大切にしてくれているところが非常に好感したし、純度100%のBLEACHを久しぶりに見ている気がして、中学生ぐらいの心情に戻ってしまう(実際、このあたりの話は自分が大人になってから連載してたんだが)。

このクオリティであと3クールやってくれるというのが楽しみで仕方ない。