丸善と、現代短歌と、推し短歌と。

くどうれいん『わたしを空腹にしないほうがいい』 はエッセイ集だが俳句集でもあった。それぞれのエッセイのタイトルが俳句になっている。そもそもが俳句のウェブマガジン『スピカ』に連載されていたもので、今でも ウェブ上で読むことが出来る

僕は短歌にも俳句にも馴染んでいなかったのだが、この書に添えられた数々の俳句というものを何の気なしに読んでいくうちに、あれ?もしかして俳句とか短歌っておもしろくない?となってきた。エッセイとセットになっていることで、俳句に親しくなくとも解釈がしやすかった、というのもあるかもしれない。

神に似た笑い声するビアガーデン

これとかすごい好き。あとこれも。

そら豆はすこやかな胎児のかたち

あまりに知識がなくて、俳句は五七五で、短歌は五七五七七で、ぐらいの印象しかなく、そしてそれは単語や文節の区切りも五!七!五!と分かれるものだとばかり思っていた。昔の有名な俳句、松尾芭蕉とかのを見ているとだいたいそうだし。でもこの俳句は「すこやかな胎児の」で後ろの七、五に文節がまたいでいる。あの五!七!五!というリズムが少し崩れて、僕の知っている俳句よりもちょっと飲み下しやすい感じというか、するりさらりと駆け抜けていくような、そういう滑らかさを感じた。そういうのもありなのか、と思ったのはこの俳句集から。

で、気になって調べると、ちょっとした「短歌ブーム」というものが今、あるらしい、と知る。そうかSNS。特にマイクロブログは、俳句や短歌とめちゃくちゃ相性がいいだろう、というのは想像できる。確かに文学フリマでも俳句・短歌のゾーンがそれなりのボリュームで出展されているがいつもほとんど素通りしてしまっていた。そうか、短歌かー、と改めて思い直す。この歳になると、趣味の幅が保守的になるのが怖くもなってくるもので、興味がふつと湧いてきた今が好機とばかりに、勢いで短歌集を1冊、ジャケ買いで年末に買ったりしてみた。

……の、だが、積んでいる。興味はそそられたが、それでもどことなく高尚な感じがするというか。味わい方が難しいというか。主に読む本が小説である人間としては、十七文字や三十一文字というのは瞬間最大風速、という感覚が強いというか、コメダのジョッキみたいなグラスやタリーズのボトル缶でコーヒーををがぶ飲みしている人間が、目の前にエスプレッソを出されたら、これどうやって飲めばいいんだ、一口で飲んでいいのか……?となってしまう、あの感じ。

などと思っていたら、先日丸善本店をふらふらしているときに、榊原紘『推し短歌入門』を見つけた。

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短歌入門、というところとキャッチーな表紙と、「劇団雌猫」というところだけが最初は目に入った。短歌ブームの折、敷居低く短歌の世界に入って行けそうな本じゃん、と思って手に取る。改めてタイトルを見ると、推し短歌入門。これは短歌を推す行為への入門なのか。「推し短歌」の入門なのか。いや「推し短歌」ってなんだ。と2秒ぐらい考えてめくってみると、これは私の歌集に収録されている歌で、歌集には明記していないが尾形百之助のことを考えて作った歌です、とか書いてある。「推し短歌」が正解だった。あるのか。そういうのも。推し短歌。別に推し短歌であることを前面に出すとは限らなくて、推しへの思いを抽象化して一般的な歌であるかのように詠む。最近よくある、アニメのタイトルやモチーフを直接歌詞に入れなくても、そのアニメを歌っていることが明らかなアニソンのようなものか。この本のなかでいくつもの推し短歌が紹介されていて、どれも解像度と言葉選びに感心してしまったので何か載せたいのだが、この本でしか「実は推し短歌です」と明かされていない歌もあるようだし、著者のTwitter(X)から「推し短歌」だと宣言されているものを引っ張っておこうと思う。僕もスタァライトなら大場なな推しです。

帯にも書かれているが、「オタクは必ず短歌がうまくなります」ということで書かれている本で、なるほどクソデカ感情を持て余してどうアウトプットするかということに終始苦しんでいるオタクにとっては、ひとつ有力な手段な気がする、短歌は。僕はそういう手段としてブログを選んだ。ブログはもうとにかく自由だ。短文でもいいし長文でもいい。思いの丈をありったけ言葉にして書き連ねて1万字とかにしても全然いい(いいか?)し、写真だけバシバシ載せて言葉にならない思いを託したっていい。そこに来て短歌というのは制約があまりに強い。三十一文字。でもそれだからこそ良くない?というのが、この本を読んでわかってきた。例えば目。眼。瞳。あるいは眼窩とか。双眸、眦、目の周辺や関連だけでもこれだけの単語があり、音の数も違えば意味も違う、読み方も変えたっていい、ということが書かれていた。そのどれを選ぶのか。どれが最も自分の言いたいことを表してくれて、かつ、歌としても綺麗にまとまるのか。制約があるからこそ生まれる難しさ、面白さ、あるいは美しさ。

「推し短歌」入門ではあるが、しっかり短歌入門ではあり、短歌のルールや技法のことをいろいろと知ることもできた。冒頭では、俳句で文節が句をまたいでいただけで「へえ」と思ってしまったが、それどころか一語が句をまたがることもあるらしい。こういうのを、そのまま「句跨がり」と呼ぶそうだ。逆に句のなかで文節が切れる「句割れ」というものもあるとか。これによって独特のリズムが生まれる。不安定さなどの表現ができる。

僕はこの、五七五七七というリズムにとらわれすぎない在り方が好きらしい。子どもの頃『めざましテレビ』で、読者の投稿川柳を松任谷由実が選出、朗読するコーナーがあったのだが、松任谷は五七五のリズムではなく、川柳で使われている単語をそのまま普通に文として読むようなリズムで読み上げていて、あれがとても新鮮で好きだった記憶がある。それが俳句や川柳のルールとしてどうなのかとかは知らないが、五七五、というリズムは俳句や川柳である時点で自明と言えば自明であり、その裏にある、選ばれた言葉自体が持つリズムというか、それをあえて浮かび上がらせる、歌には二重のリズムが眠っているのだ、という発見ができるのが好きだった。

現代短歌、と呼ばれるものが、どのあたりが「現代」なのか掴めずにいたが、推し短歌入門では「口語で書くか、文語で書くか」ということに触れた節があり、ああ口語で書いているのが新鮮なのか、と気付く。言われてみれば和歌は文語だ。それはそうなのだが。口語で、砕いて、今の語彙と口調を三十一文字に当てはめていく。短歌はわずか三十一文字だが、そこには思っていた以上の自由があるのかもしれない、ということが少しずつ、わかってきた。

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その他、丸善本店での買い物。月に1回ぐらい行きたくなる。