COVID-19と生活 (5)

2020年に「COVID-19と生活」と題するエントリーをシリーズ的に4回ほど書いていた。

僕は今回の騒動で、実際に感染したわけではないし、幸運なことに収入なども大きく変化してはいない。だけど世界が変わり、生活の変化は余儀なくされた。この状況下での生活を書き残しておくことは、何かしら意味があるのではないかという気がしてきたので、少し書いてみる。この事態が長く続くのであれば、1か月おきぐらいに書くことにしていきたい。ただただつらつらと、何かメッセージがあるわけでもなく、淡々と書いてみたい。

こんなことを1回目のエントリーでは書いていたが、その後半年もせず、2020年7月を最後に物の見事に頓挫している。書くことがなかったというより、ブログ自体がコロナ禍に入ってから低調だったから、その流れでこのシリーズも書かなくなったのかな、という気はする。実際のところ、いろいろあった。自身も検査を受けたことはあるし、家族や知人も何人も感染した。幸い誰も重症化したり、亡くなったりということはなかったが。お気に入りの店は閉まったりもした。やよい軒のごはんのおかわりが、ボロボロッと白米を吐き出すマシンになったのはちょっと面白かった。自分は感染していない。同じ屋根の下に感染者がいても感染はしなかった。そんなわけはないだろう、とは思うのだが。

最初の緊急事態宣言から3年近くが経ち、コロナの「終わり」という言葉が使われ始めた。マスク着用の勧奨が緩やかになったことと、今年5月8日に予定されている5類感染症への移行をもって「終わり」なのだと言われる。個人的には別に終わりとは思っていない。マスクをしないのも別にいいし、以前ほどの危機感が薄らいでいるのも確かだし、5類移行自体も別に反対はしない。ただ、「終わり」という言葉はさすがに蓋をしすぎている気がする。高齢者の致死率はインフルエンザよりは尚高く、医療の圧迫が5類移行後にどうなるかはまだ不透明だし、Long COVIDの全容はよくわかっていないままになっている。5類移行という社会的な区切りが、別にウイルスの性質を何か変えるわけでも当然ながら、ない。

僕はここまで、診断上は感染しないまま来ているし、「後遺症ガチャ」があるなかで、今後かかっても良いとも思えていない。現状マスクはしている。スギ・ヒノキの花粉症だからというのもあるが、満員電車などでどうせマスクするなら、付け外しするよりは付けっぱなしのほうが楽で、わざわざ外すメリットがあまり見出せていないだけではある。公園などに着けば外すこともある。喋るときにある程度の距離が離れていたら外すこともある。とはいえ、ずっと着けずに生活するまでには吹っ切れない。

自分だけではなく、周囲にもやはりかかってほしくはない。これだけ感染が広がりやすいものだし、昨年末なども、身内の高齢者に久しぶりに会うときはかなり緊張した。1週間ほど前から外食を断ち、事前に検査も受けて、実際に会ってからも、同じ部屋で過ごす時間も最小限にしていたが、それでその後10日ぐらいは不安が続き、あまり心安まらない正月になった。5類に移行したあと、仮にすぐ高齢者に会うということになっても僕は同じことをするだろうし、しばらくはまだ状況を注視する必要がある。家族なのに、そういう会い方しかできないのは侘しい。この状況でまだ「終わった」とは、やっぱり言いづらい。

リモートワークは弊害が叫ばれて、多くの企業でオフィスへの出社回帰の流れになり、通勤電車も再びギチギチになって久しい。一方でコロナ禍における生活様式の変化は、一部では定着しつつある。ライブやイベントの動画配信、博物館や美術館の事前日時指定制、商業施設入り口のサニタイザー。リモートワークが廃止された会社でも、取引先とのオンライン会議は残っているところが多い気がする。手洗いうがいや、微熱であっても発熱があれば休む、といった個々人の衛生観念については社会からは見えてこないが、そのまま残り続けてほしいように思う。こういった変化が不可逆なのか、あと数年程度で結局風化してしまうのかはまだわからない。わからないのだが、いくらかは残っていてほしいと思っている。それはコロナ禍というパンデミックの最中ではなくとも、自他の健康を守るためには有効な施策だったり、あるいは副次的な効果があるものだったりしたはずだから。

揺蕩っていていいのだ、ということを思う。ゼロかイチではなくて、必要なものを必要なときだけ取り入れるような、そういう柔軟さが社会にあればいいのだが、どうもそうなるには器用さが要るようで、すべてをゼロにまで戻してしまう例も見かける。日頃は週に5日オフィスへ通っていたとしても、気分転換や家庭の事情などでリモートワークを選択的に使えたらいい。頑張って遠征がちょっと気分的に体力的にできなくて、今回のライブは配信で見るか、という選択肢が残されていたら嬉しい。お手拭きを置いていない飲食店は、サニタイザーを置き続けてくれると助かるのだが、残念ながら一部チェーンはすでに撤去を始めていて、なんでだよ、という気もしている。簡単に言うなよ、コストもかかるんだぞというのはわかってはいるが、コロナ禍における「新しい生活様式」というのは、社会が何らかリスクを負いながら、個人に優しくしていた期間というようにも思えて、あれほど大規模なリスクを負うことはもう許されないし望まないが、そういう選択肢が今後も残されていて、大規模な震災や災害のあとに、その教訓として少しずつ生活は変わってきたように、今回の災禍でも少し、何かが変わっていたらいいのだと願う。その意味では「終わり」だと思えていないのだというのと同時に、ある側面においては「終わり」を迎えてほしくないのかもしれない。「新しい」と言っていたはずのものが、古くなっていくことへの違和感。先の戦争や数々の災害については事あるごとに「思い出す」ことが叫ばれ、風化させないことが望まれ、「戦後は続くよ どこまでも」などとまで言われたのならば、この災禍もまた同じように思い出され続けていくべきなんじゃないか。

コロナ禍、というものが実際どこで終わるのかはよくわからないが、このシリーズはここで終えようと思って筆を執った。いい機会ではあると思った。半端な状態で放置したのが気掛かりだったのは確かで、どこかで、自分のなかでのピリオドを打っておきたかった。状況次第ではまた書くかもしれないし、公開していない手元の日記を「コロナ」で検索するとうじゃうじゃと引っかかるので、記録としてそこから文章をピックアップしてまとめておく、なんてことも考えたのだが、一旦は面倒なのでやめにしておく。いつか書くかもしれないし、書かないかもしれない。まぁ、揺蕩っていいのだ。

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